立花仙蔵の場合 



 穴だらけの地面の中で、その穴だけは違った。
 綾部にとって、その穴は特別なのだ。なぜなら中にあのひとがいる。
 おずおずと覗きこむと、1畳ほどの土がむき出しの空間に四肢を投げ出し、長い黒髪を無造作に垂らしてかの人はちゃんといた。
「喜八郎」
 困ったように笑っている。
「やられたな。絶妙だったぞ」
「先輩」
「もう少ししたら自力で上がるつもりだったが、面倒だな。頼んでいいか?」
「今、上げます」
「ああ」
 一歩下がる。手には縄ばしご。ひとつ息を吐く。

「・・・・・・・!!」
「先輩、助けようと思ったら落ちちゃいました」
 腹の上に綾部を乗せたまま、立花仙蔵は眼を白黒させている。
 むしろ自分から落ちてこなかったか、というつぶやきはしかし、綾部には聞こえない。
 目の前にある土壁と、対照的なまでに白く、抜けるような肌。流れるような黒髪が縁取っている。ちょうど光は明るくその人の面を浮かび上がらせているから、それに相対する自分の顔は陰になっているのだろう。きっと青白い、血の気の無い顔に眼ばかりがぎょろぎょろと光っている。
 目の前の端正な白い顔に丸い影がさして、自分とかの人の距離を知る。
「・・・・・喜八郎」
「・・・・・・・・・」

 このままこの人を、埋めてしまおうかとも思った。
 自分が飛び込んでしまったので、もうそれはできないのだけど。
 けれど自分がこうして上にいれば、さすがの彼も簡単には上がれない。
 掘って掘って掘って作った世界は、この人を閉じ込めておくにはあまりに殺風景で、だけど誰にも邪魔はされない。
 この人がここにいることさえ、自分以外は誰も知らなければいい。


「喜八郎?」
「上になんて、戻らなければいいじゃないですか」
 息がかかりそうなほど近い柳眉が、わずかに顰められた。
「日が落ちて明日が来て、秋が終わって冬が来て、それでも穴の中なら温かいです。雪が降ったらちょっと冷たいけど。春が来て花びらが降ってきたら、窒息しない程度に掻き出します。そうやってまた春が終わって夏が来て秋になって、来年も再来年もここにいればいいのに」
 いつもの抑揚のない(そう滝夜叉丸に言われたのだ)喋り方は変わらないが、その声は自分の唇から出たとは思えないほどしわがれていた。
「喜八郎、」
 くしゃくしゃの灰色の髪に、その人の手を感じる。
「馬鹿を言うな」
 そのまま引きつけて、抱きしめてくれた。耳元にあの心地よい、低い声が流れてくる。
「私だって、できるものならずうっと学園にいたいと思う事もある。
 だが6年の月日を思えば、そういうわけにもゆかん。わかるだろう?」
 違う、と言いたかったがもう声が出ない。浅黄色の制服の肩に、自分の涙が染みを作っていた。
「お前は春が来たら何もかも変わると思うのかもしれない。だがな、覚えておけ喜八郎。
 私は卒業するが、どこかでやはりお前と同じ夏や、秋や、冬を過ごすだろう。お前が穴の中から見る空と、同じ空を私もどこかで見ているよ。
 だから、そんなに寂しがってくれるな」
 憧れの人の項に顔をうずめ、しゃくりあげながら綾部は何度も頷いていた。何に対してだか、そんなのはもうどうでも良かった。


 ひとひら紅葉が落ちてきて、綾部の髪を撫でていた手が止まる。
「今年初めてだな」
「ええ」
 顔も上げずに答えたせいか、溜息が降ってきた。
「それにしてもお前、縄ばしご持ったままで降りたら意味がなかろう」
「先輩どうにかしてください」
「…それをお前が言うのか」

 土まみれの二人がようやく這い上がった頃には、夕食の匂いが漂い始めていた。




 仙蔵は綾部の気持ちに気付いてないか、気付いてても気付かないふりをしてる。