院内お静かに願います




 すっぱーん、と引きドアが開かれ(病院仕様で消音設計のドアが、毎回毎回なんでこうも見事に鳴るのかは永遠の謎だ)鉢屋!とよく通る声が傍らの医師の名を呼んだ。とはいえ、ドアが開く前から軽いが忙しない靴音で心療内科講師不破雷蔵には誰が来るか分っていた。
 泣く子も黙る脳外科助教授立花仙蔵である。退室しようとドアの前に来ていて、可哀相にちょうど耳元で怒鳴られた格好の看護師の怪士丸がカルテを取り落としている。
「何してる、ブロッカ摘出のブリーフィングが始まってるぞ!」
 だが、鉢屋はずずずと甘ったるいコーヒーを啜ってちらり、と平和な休憩室への侵入者を見上げる。この男の太い神経はいつものことだ。
「あの、待合に聞こえるんでもうちょっと静かに…」
 ただでさえ神経の尖っている患者さんが多いのだから、と思ってした提案が、立花助教授の流し眼ひとつによって流し去られてしまうのもいつものこと。
「えー、折角雷蔵の淹れた美味しいコーヒー飲んでたのに」
 麻酔医なら他にいるでしょ、とコーヒーマグ(ちゃっかり自分用だ)を両手で温めつつ、一ミリも腰を浮かさず鉢屋がぼやく。
「あんな新人アテにならん」
「もう三年居ますって」
「それであの腕なら薄らボケだ」
 と、当の麻酔医が聞いたら涙目になりそうな毒舌を吐いて、さっさと来いと助教授殿がいらついたようにドア枠を指でドラミングする。
「今度のオペはでかいんだ、私が執刀するからには、麻酔も完璧な腕が無いと困る」
「えー、だってさっきまで潮江センセんとこのバイパスやったばっかなのになあ・・・」
「文次郎は手伝ってウチのはやらないのか」
「そういうこと言ってんじゃないんですけどねー、」
 そこへ、ぱたぱたとサンダルが軽やかに響いて、笹山看護師の丸い顔がぴょこんと立花助教授の白衣の後ろへ飛び出す。
「あ、居た居た!先生が居らっしゃらないとブリーフィング進みませんよー。鉢屋先生を呼びに行くくらい僕が行きますって言ってるのに」
「鉢屋が来ない限りブリーフィングは始めん。同じことをこの男のためだけに二回言うのは時間の無駄だ」
 そう立花助教授が放言するなり。にこり、と笹山看護師はこちらに目だけが笑っていない笑顔を向けて、
「そういうことなんで、来てくださいね?」
 と全く優しくない声でお願いをする。この助教授にこの看護婦とくれば、影堂教授が休養を取られている理由がなんとなくわかるような気さえしてしまうからそら恐ろしい。
「行っておいでよ。コーヒーならいつでもまた淹れてあげるから」
「雷蔵がそう言うなら」
 しぶしぶと鉢屋はまだ半分も飲んでいないミルクと砂糖たっぷりのコーヒーをローテーブルに置き、白衣をひっつかんで肩に引っかけた。彼が立ち上がったと見るや脳外科コンビはさっさと背を向けて休憩室を後にしてしまっている。
「ブロッカってことは立花先生でも5時間はかかるなー。ああ、しんどい」
「頑張ってね」
 大学病院敷地の奥も奥、最果てに位置する心療内科棟へしょっちゅう入り浸っているせいでその印象は薄いが、麻酔医として常に患者の全身状態をチェックしておかねばならないオペを一日何個もこなしている彼が結構な激務だということを知っている不破は、そう言って励ますよりほかになかった。

 便所サンダルに袖を通さず引っかけたままの白衣、という相変わらずのいでたちで鉢屋が休憩室をのろのろ去ってから、不破はゆっくりと伸びをする。ようやく不破にとっていい具合に温まったブラックコーヒーを飲みきったところで、折よく怪士丸が戻ってきた。ちなみにハーブティー党である。
「先生、そろそろ午後の診療の時間です」
「了解。…あ、冷蔵庫の牛乳確か使いきっちゃったよね?」
「えーと…そうですね、終わりみたいです」
ぱたん、と冷蔵庫の扉を閉じる音が柔らかく響く。
「うん、ありがとう」
今度はジャージー牛乳でも買っておいてやろうか、そう思いながら不破も休憩室の気持ちよいソファから立ち上がった。