あふれる



 視界の左端に小さな黒点がある。仙蔵がそれに気づいたのはつい三日前のことで、真白い半紙に向かって字を書いていた。最初は墨が撥ねたと思った。だが横を向けば、その染みも半紙の上を移動する。次にはごみがついたかと思ってこすったり目を洗ったりしてみたが、いっこう無くならないのでああこれは己の眼球の問題なのだなと気づいた。黒点の大きさも形も定かでないのでよく見てやろうとすると、すぅ、と視界の端に逃げてしまう。
 意識というのは厄介なもので、そうやって見よう見ようとしているうちに、白や明るい色の前でしか見えなかった黒点が常に意識されるようになった。だから今日食堂で目の動きを留三郎に指摘されたのも、そういうわけなのだ。

「仙蔵」
「なんだ」
「どうしたさっきから」
「なんのことだ」
「ちらちらちらちら横目使いやがって。気になるくのいちでもいるのか」
「殴られたいのか」
「いや、お前が落ち着き無いなんて珍しいから」
「黙れ。お前に私のなにがわかる」
 留三郎はきょとんとした顔で仙蔵を見ていたが、やがておとなしく目を下げて白飯に集中しだした。触らぬ神にたたりなし、とでも思ったのだろう。その事なかれ的態度がまた気に食わない。
 ちょうどその日のおかずは揚げだし豆腐で、仙蔵の背後の卓に座った五年の一団が派手に騒いでいる。いわく、衣をつけてしまったら豆腐のすべらかな肌が見えなくなる、揚げだし豆腐なんて邪道だ、だが美味しいと思ってしまう自分は豆腐という恋人への裏切りに値するだろうか云々。
 くだらないと思うのだから聞かなければいいのだが、目の前の留三郎が黙っているせいでいやでも耳に入る。
 豆腐、豆腐、豆腐、とうふ、たうふ、とーふ……ああ五月蠅い。
 がたん、と立ち上がった仙蔵に、留三郎が一寸脅えたような目を向ける。それを黙殺し、騒がしい卓へ歩いてゆく。うっとりと熱弁をふるう黒髪の五年生はよほど陶酔しているのか、背後の気配に気づかない。その右手をぱしりと掴んだ。久々知平助の長広舌が止まり、絶妙な力加減で保持されていた揚げだし豆腐が卓の上に落ちる。
「少しは黙って食え」
 そろそろと振り仰いだ久々知はそのまま青い顔で凍りつき、どころか食堂全体が水を打ったように静まり返る。
 咀嚼音ひとつしない沈黙を破ったのは不破で、普段の思い切りの無さはどこへやら、勢いよく立ちあがって謝った。それに続く形で竹谷も尾浜も、あの鉢屋ですら神妙に首を垂れるものだから、ちっと小さく舌打ちをして掴んでいた手を離してやった。久々知が慌ててなにか言ったような気がするが、その内容などどうでもいい。ただ背を向けて歩き去る時、五年の誰かが急いで久々知の側に寄って慰めているのに気付いて、頭の芯が再び熱くなった。
 席に戻ると留三郎がなにか言いたそうにしていたが、目に険を込めて睨んだ仙蔵に恐れをなし、大人しく味噌汁に戻ったようだ。そろそろと食堂はにぎわいを取り戻すものの、ちらりちらりと向けられる視線や囁き声が誰に向けられているか、振り向かずとも分かる。
 箸を動かす手を早めて最後の一口を口に入れ終わった時、箸を置いた留三郎が立ちあがった。そして目を合わせず立ったまま茶を飲み干すと、会釈だけして盆を持ち返却口へ向かう。ごちそうさま、という級友の声はわざとらしく明るい。食堂の注目を集め続けることと留三郎と一緒に長屋へ帰ることを秤にかけた仙蔵は、結局その後数分のあいだ、空になった膳を前に座っていなければならなかった。


 午後の授業は組み手であった。
 体を動かせば気持ちも晴れるだろうと期待して出席したのだ。だが相手と向き合い呼吸や筋肉の微細な動きを読もうとしている時に限って、あの黒点が視界をちらつく。つい反射的にそちらに意識をもってゆかれ、気がつくと相手の拳が目の前に迫る。紙一重で避けたものの、バランスを崩してかすかによろめいて、それで反撃が遅くなった。結果、どうにか相手を地に伏せるまでに自分も頬にすり傷を負い、打撲も少々こしらえてしまった。
 憮然として待機列に戻った仙蔵と入れ違いに文次郎が立ち、普段より濃い隈を作った彼は、仙蔵の意地の悪い期待をよそに鮮やかに相手を投げ飛ばした。褒めそやす級友と笑顔で話す文次郎からは自分は見えていない。その横顔から目を逸らす。
 何度か組み合って、教師が総括を述べたところで鐘が鳴った。下向き加減で校舎に戻りかけたところを教師に呼び止められ、顔を上げて中年の教師に向き直る。乾いた地面をすうっと移動する黒点が見えた。
「立花」と教師は彼の名を呼ぶ。
「最近どうした。組み手でも集中力が切れてるぞ」
「はい」
「立花らしくない」
「はい」
「いいか、忍びにとってはその一瞬が命取りになる」
「はい」
 そのようなことは言われずともわかっている。肚から湧き上がるどす黒い感情を抑えて、知らず唇をかんだ。見当外れの激励も、言われれば言われるだけくつくつと煮える黒い火を焚きつける。だが仙蔵はあくまでも神妙に、一礼して教師を見送った。
 文次郎は決算期だとか言って、ここ数日、会計委員会室に泊まり込みで帰ってこない。午前の坐学では斜め前に座っていたはずだが、あのうっとおしい面をもう何日もまともに見ていない気がする。


 手ぬぐいを冷たい井戸水に冷やして汗を拭いていると、落とし紙を持って伊作が現れた。珍しく落とさなかったものと見えて、その紙はひとつも土に汚れていない。なんだつまらない、と意識の隅で思う意地悪さは生来のものか、それともこの気分のせいだろうか。そんな彼の自嘲を知らぬ伊作は、脳天気に手を振って横へ並んだ。いつものように益体もない世間話をするかと思われた伊作はしかし、意外にも真剣な顔で仙蔵の顔を覗き込むように言った。
「留三郎から聞いたよ」
 ぴくり、と眉を動かしたのも意に介さず、伊作はワントーン下げた口調で続ける。
「たしかに最近ちょっといらついていたし。身体に不調があるなら無理しないほうがいい」
「何もない」
「仙蔵は特にそういうとこ隠したがるけど、何だって早めに治療するに越したことはないよ」
「何もないと言っているだろう」
「仙蔵、」
「うるさい」
 伊作の目はこれぞ心配、といった様子で揺れ動き、斜陽を反射して震えた。その光から逃れるように身をよじって後ろを向く。治療したいだけのくせに、という言葉をようやく抑えて、もと来た方に歩きだす。後ろで呼ぶ声にも足を速めるばかり。


 夕食はひとりでとった。入口付近で留三郎と会ったが、睨みつけたのが効いたのか、肩をすくめてさっさと伊作を見つけその隣に座ってしまった。彼らの向かいの席には二年生の川西と池田がすでに座っている。小平太に大きな声で名を呼ばれたものの、その横に平が座っているのを見て踵を返した。頭の良い彼は嫌いではないが、今は自慢話に付き合う気力はない。
 よりにもよって献立はしいたけとにんじんの煮付けである。苦手なしいたけばかりが残った椀を箸でつつきながら文次郎がいれば押しつけるのにと思うのだが、先程田村がおばちゃんに握り飯を作ってもらって出て行ったところを見ると、委員会室に一人残って帳簿を繰っているに違いない。しいたけを小さくちぎってお茶と一緒に飲み下す。生理反応なのか、じわりと涙が滲んだ。


 食堂を出て長屋に戻る途中、今度は用具主任に呼び止められた。その細長い顔はいつになく眉が下がりきっている。
「立花くん、きみは作法委員長でしたね」
「はい、そうですが、何か?」
「四年い組の綾部喜八郎くんは作法委員だったと思いますが、委員長のきみからもひとつ言っておいてくれませんか。のべつまくなしに穴を掘られると補修が追いつかないのです」
 ああまたその話か、と思った心中を察してか、吉野の語調がわずかに強くなる。
「私や用具委員長の留三郎くんが言っても彼は聞く耳を持ちませんから。きみにもすこしは後輩のことに責任をもってもらわなければ」
「はい」
「頼みましたよ」
 もう一段眉をぐっと下げて、吉野は帰っていった。綾部の穴掘りはあの子にとって必要なのだ、ということを仙蔵はうっすら理解していたから、度が過ぎた分をたしなめることはあっても穴掘り自体を止めさせるのは本意ではない。大体忍びのたまごなのだから、おなじたまごの掘った落とし穴にかかるほうが悪い。
 そもそも自分が言って聞くようなら、毎度委員会に遅刻する彼を藤内に探させる派目になどなるものか。自分に言って如何とする。これ以上綾部をどうしろと言うのだ。


 そして文次郎はやはり部屋にいなかった。
 角を合わせてきっちり畳まれた布団が、もう何日も変わらず部屋の隅に控え目に積まれている。
 違っていた点はひとつだけで、彼の無駄なく整頓された机の上に、小さな桃色のちりめんの袋が置いてあった。
 ああこれはたしか、と仙蔵はぼんやり思い出す。思い出すまいと意識のどこかが明滅するが、その光に気付く間もなく、鮮やかに記憶が蘇ってしまった。
 これは昨日、文次郎に渡してくれと、ひと学年下のくのいちから頼まれたものだ。どうせ部屋には帰って来ぬからと、坐学の後たっぷり皮肉を言って、たしかにあの男に渡してやった。それがなぜ、この机の上にちょこんと鎮座しているのだろう。考えるまでもなく、あ奴は帰ってきたのだ、この部屋に。この包みを後生大事に持って、それを無くさぬよう部屋に置くためだけに。自分に顔も合わせずに。

 頭に血が上った。

 苦無を握って、隅の布団に覆いかぶさる。真一文字に表面を切り裂けば、切り口からじわりと綿があふれ出た。さらに苦無を振るう。人の肌から血がにじむように、布団の中からは綿がじわりと顔を出す。何度も何度も切りつけて、舞い散る埃にむせながら、それでも苦無を突き立てる。いつのまにか手ごたえを感じないと思ったら、綿の塊の中を苦無でかき混ぜていた。
「気が済んだか」
 聞きなれた声がして振りかえると、後ろに同室の男がいた。
 咄嗟に苦無を捨て、立ち上がって突き倒す。馬乗りになって殴った。仙蔵を取り囲み押し潰さんとする叫び声は、どうやら自分の喉が震えて出しているようだった。容赦なく突き立てる拳を、文次郎は巧妙に急所を避けるがそれだけで、顔中にあざが浮かぶのにもかかわらず、がら空きの仙蔵の腹に反撃のひとつも来ない。何発目かにふりあげた拳が行き場を失って、だらりと落ちる。初めてまともに文次郎の目を見ると、その目に映る自分の顔は泣きだしそうに歪んでいた。
 文次郎が不意に身体を起こしたので、仙蔵はバランスをくずして、ちょうど彼の太ももの上に座る形になった。とっさに逃げようとしたが、文次郎の腕が体に回される。
「仙蔵」
「気安く名を呼ぶな」
「仙蔵」
「この馬鹿もの」
「うん」
「なぜ反撃しない」
「してほしいか」
「いい加減反撃しろこの意気地なし」
「なあ仙蔵、俺を殴って気が済むんならそうしろ」
「……もん、」
 呼びなれた名のはずなのに、唇が震えて力が入らない。
「悪かったな」
 違う違う違う。お前のせいなんかでかき乱されてたまるものか。自惚れもいいかげんにしろ。抱きすくまれた腕の中でそう叫んだのか、言葉にできたのは胸の中だけで、聞こえていたのは嗚咽なのか判然としない。気がつけばしゃくりあげて泣いていた。
「さみしかったか」
 ぶんぶんと横に首を振る。
「あの包みか」
 黒髪がふり乱れるのにも構わず、さらに大きく首を振る。
「仙蔵、あの包みは」
 言うな、聞きたくないと耳を塞いだ仙蔵の手はそれより大きな手に優しく包まれて浮かされ、耳との隙間にあたたかい息を感じる。
「あの包みは俺の組紐だよ。先日演習中に、髪をまとめる紐が切れて困っていたくのいちに貸してやった。それが返ってきただけだ。ちゃんと説明しないで、悪かった」
 文次郎の声は心地よく、ぐちゃぐちゃだった仙蔵の脳髄をゆっくりと冷やしていった。言葉の内容など頭に入らなかった。ただその響きだけが鼓膜を通り、脳へ到達し、血液にのって体中をゆっくりと巡って筋肉を弛緩させる。
 広い肩にぐったりと頭をもたせかけると、文次郎の忍着から汗と埃の匂いが鼻孔に沁みとおった。久々にこの匂いと熱を近くに感じたような気がする。顎が持ち上げられ、口づけられる間も仙蔵はされるがままでいた。髪を梳く文次郎の指が心地良かった。



「新野先生によればね、生理的な問題で視界に異物がちらつくように感じることがあるらしい。他の目の病気のこともあるけど、それは検査したから仙蔵の場合大丈夫だよ。そのうち慣れて、気にしないようになるといつのまにか消えることも多いってさ」
 翌日保健室を訪ねた仙蔵に茶を勧めた伊作が、自らも名前入りの湯のみで茶を啜りながらのんびりと言う。
「そうか。残念だな伊作」
「なんでさ」
「その口ぶりだとお前も治療しようがないのだろう」
「だ、だからって残念だなんて思わないよっ」
 仙蔵ひどい、本心から心配してるのに、と慌てる声と笑い声が重なり、保健室の障子を越えて晴れた空へ昇ってゆく。風が穏やかに吹く夏のはじめの日のことであった。



目の前に糸くずやゴミのようなものが見えて、視界を動かすと付いてくるのは飛蚊症というらしいです。
伊作の言うように生理的なものは心配無いのですが、他の病気が潜んでることもあるそうなので、
見える影が増えたり視力が落ちたりする場合は眼科に行きましょう……。