墨海に漕ぎ出で舵を絶えん



 綾部喜八郎には、人の感情の機微というものがわからない。
 そもそも、自分ですらよくわかってないのだ。腹が減ったの眠いの催したのだとかいう生理的欲動ならいざ知らず、胸奥が落ち着かなかったり口の中が苦くなったりするのは、一体どうしてだかいまいち原因がわからないので、きっと穴を掘り足りないのだろうと思うことにしている。そうして一人夜中に鋤を動かしていれば、扱い難いもやもやはいつの間にか霧散する。
 喜八郎の周りにあるのは、鋤と、掘られるために存在する地面だけで、すべきことは穴を掘るだけである。こうして全てが自分で理解できる範疇に収まっていれば、綾部喜八郎は幸福なのであった。

 同室の滝夜叉丸は、そんな喜八郎仕様で大変にわかりやすくて助かる。怒るときは眉を天井から糸でもつられているのかと思うほど跳ねあげて怒鳴るし、楽しいときは背をそらして笑う。他の同級生だと、そうはいかない、らしい。
らしい、というのは彼の態度が他の人間に対しても変わらないからで、後から三木やら滝夜叉丸にあの状況であの行動は慎め、といちいち諭されるからである。
 前に、班を組んでの演習中足をくじいて動けなくなった同級生に「俺はいいから先に行け」と言われたのでそうしたら、後からお前は冷たいと言って詰られた。
何を勘違いしたか、くのいちと偶々お使いが一緒になって歩いていたのを浮気されたと思った上級生が、その女の子連れで凄んできたので、正直に「その子が特に可愛いとは思わない」と証言したら、何故かくのいちに泣かれた。
 「あれはな、あのくのいちがお前に気があったらしい」と後から三木が説明してくれたのだが、ならば何故お使いの間中そっぽを向いて歩いていたのか、喜八郎は未だに理解できていないのだった。その件では何故か噂に尾ひれやら背びれやらがついて、いつの間にか喜八郎から手を出しておいて、浮気がばれたので相手を捨てた、といったような話が後日流れて滝夜叉丸が憤慨していたが、普段の喜八郎を知る者にとってはあまりに馬鹿馬鹿しい話であるので、その話題は大した広がりもなく下火になった。
 文脈だとか、空気を読むだとか、そういった面倒くさい事象を押しつけてこない滝夜叉丸との同室は、だから周りが思うよりよほど楽だ。

「喜八郎!今回の試験でもまた一位が取れたぞ」
 同室の男が帰ってくる。明らかに軽やかな足取りで廊下を走ってきたな、と思えばぴしり、と障子が滑らかに気持ちよく開いて(滝夜叉丸がこの前蝋を塗りなおしていたからだ)胸を反らした滝夜叉丸が満面の笑みでそこにいた。
「やはり、知識の量が明暗を分けたな。知っていておいて損なことは無い」
 満足げに呟きながら彼が部屋に入ってくると、喜八郎の腹に足音の振動が伝わる。ごろごろしながら意識の半分を使って課題の図書の字面を眺めていた喜八郎は、もう半分の意識を夢の間から引っ張り出して、それを隣に腰を下ろしたらしい滝夜叉丸の方に向けた。
 正座して、試験範囲だったところをもう試験は終わったというのに眺めている、いやちゃんと読んでいる。その視線に気づいたか、彼は教科書から顔をあげて喜八郎ににっかりと笑いかけた。
「これで、今学期の小試験は全部私が一位を取れた」
「すごいじゃない」
 喜八郎の表情にはすごい、のかけらも見当たらないのだが、それは別に彼が腹の底では違うことを思っているという訳では無いし、そもそも彼はそんなことができるほど器用な人間ではない。慣れきった滝夜叉丸はもう気にも留めない。
「まあ、私だからな」
 謙遜という字がさらさら書けるくせに、どういう意味かは知らないらしい滝夜叉丸がそう言って一人でうなずき、また本に戻った。
 ちなみに、今喜八郎がやる気を出しかねてめくっているだけの課題図書については、同室者はとっくに読み終わっている。
「ねえ滝」
「んー?」
「この本つまんない」
「つまらなくたって、課題なんだからしょうがないだろう」
「だってつまんないんだもの」
 言いながら、喜八郎は本を両手に持ったまま板間をごろごろと転がる。そのうちどうせ大して読まれもしなかった本が手から離れ、部屋の隅のほうに滑って行って壁にゴンとぶつかる音がした。
「こら、喜八郎、気が散る」
「もうそこの試験終わってるじゃない」
「間違えたところを見直しているんだ、まぁ、ほんのささいな所だけだが。…そのまま誤りを覚えていたら、忍者として生死を分けるかもしれない」
「滝なら大丈夫だよ」
 転がるのにも飽きたので、出来るだけ勢いをつけて本を滑らせ、どこまで行くか試し始めた喜八郎は滝夜叉丸を見もしないで言う。しゅーしゅーと磨かれた板の面に和紙がこすれあう音が不思議に面白かった。
「そんなことは分からない」
 普段自信たっぷりなのに、と喜八郎はかなり遠いところまで滑るようになった本を取るために、中腰で腕を伸ばしながら思う。だんだんとコツをつかんだのか飛距離が伸びてきて、あと少しで部屋のこちらから反対の壁まで届きそうだった。
 しゅーとまた本が滑る。
 だが、どうしてもあと少しの所で摩擦が勝って、本は止まってしまうのだ。喜八郎は数度また惜しい挑戦を繰り返した後、猫のように小首を傾げて無意識に天袋の方を見上げた。そういえば。
「滝、このまえの障子」
「ああ、滑りが良くなったろう」
 と口に出してから、喜八郎の魂胆に気付いたのかぐるり、と首を回してちょうど腹ばいで本を取りにいっている喜八郎の姿をとらえる。
「まさかお前、床に蝋を引く気じゃないだろうな」
「…やっぱり駄目?」
 お前なぁ、と滝夜叉丸は教科書を放り出すと、匍匐前進で部屋の向かい側まで進もうとしていた喜八郎の先をたった二歩で追い越し、さっきまでカーリングの駒と化していた気の毒な本を拾い上げた。心なしか、何度もこすられた表紙の紙が薄くなったような気がする。
「それ私の本」
「本は読むものであって、滑らせるものじゃない」
 どこぞの図書委員のような物言いである。とはいえ、この本だって図書室からの借り物であるので、確かに今までの扱いが知れたら同じお小言をいただくことだろう。
「どこまで読んだ?」
「三」
「三章か」
 と、まだ指を通してもいないページを開こうとするので、喜八郎は親切に教えてやった。
「そうじゃなくて三ページめ」
 がくん、と滝夜叉丸の顎が開いて、眉がハの字に顰められる。あ、呆れてるなと喜八郎にも分かって、そこが滝のいいところなんだよねと心中で感想を述べた。
「三ページって、全然読んでないのと同じじゃないか」
「つまんない」
「またそんなこと言って…。明日までじゃなかったか、この課題」
 一応確認形ではあるが、もちろん滝夜叉丸は正確に期日を知っている。とはいえ三日前には終わらせているのが常なので、彼のその知識はもっぱら喜八郎用備忘録と化している。しかも、期限が迫ると教えてくれる便利機能付き。ついでに部屋にかけてある暦にも自動記入してくれる。喜八郎は見ないが。
「そうだっけ」
「そうだ。まったく、喜八郎は読みはじめれば早いのに。しかも一回読めば覚えるんだから、早く読んでしまえ」
「やる気がない」
 今度は床板の木の節についた年輪を数え始めながら彼は宣言した。すぐに数え終わりそうだったが、細かいので途中で計算を忘れてしまってなかなか終わらない。よく見れば、外側に行くにしたがって円は二本の曲線へと別れ、徐々にまっすぐになり、幹を走っていたであろう大きな流れと一体になっていく。あ、これどこかで見たなと、渓流に飛び出た岩やそれを迂回していく水流を思い返す喜八郎の頭の中には、いつか遠足でいった深山の渓流が広がっている。この季節、涼しくて大変よろしい。どこを見ているかわからないと普段言われる喜八郎の目は今ばかりは皿のように見開かれ、数尺先の節を注視している。
 はぁ、としっかり聞こえる溜息をついて、滝夜叉丸は未だごろりと伸びたままの喜八郎の肩を本で軽く小突いて、注意を板間から逸らした。河鹿鳴く清流はその一突きで夏の生ぬるい空気に溶けて行って、喜八郎はやっぱり渓流ではなく板目を見ていた。残念だが、板は程よく冷たくて、これはこれで気持ちがいい。
「ほら、私も読む本があるから、一緒に読もう」
「滝の読む本って忍たまの友?」
「別のだ。まだ借りてきた本を消化しきれてない」
 部屋の滝夜叉丸側の書机の横にある、風呂敷包みの中身を指して言う。この風呂敷包みがぺしゃんこになっているところなど、喜八郎は未だかつてお目にかかったことがない。だが、消化とこの友人が言うからには、この一見常に同じ高さの中身は目まぐるしく入れ替わっているのだろう。
 だが、喜八郎だって本は読む。部屋に二つ備えられた書机のうち、喜八郎側の物の上には、しおりが挟んであったり、伏せてあったりする本がいつも三〜四冊はおいてある、というより積み重ねてある。自分に興味が持てることならば、そして気分が向いたならば、彼はそれこそむさぼるような勢いで誰かが下手な手で模写したらしい崩し字を易々と読んでいくのだ。だが、今回の課題の図書は南蛮の体術の歴史についてで、実践ならいざ知らず遠い異国でのある流派の拡播の過程を知って何になるのかいまいち納得しがたい。
「だって滝は興味がある本を読むんでしょ」
「読まなければならない本は終わったから」
 さっさと例の風呂敷包みの中身を取り出して、こちらもしおりの挟まった何かの本を取り出した滝夜叉丸は、当然喜八郎もその疇に従うものと疑いもせずこちらを見ている。
「それもそうか」
 口に出して言えば、少しは納得できるような気がした喜八郎は、渋々と滝夜叉丸の差し出す課題図書を受け取り、三ページめを開いた。段々外も暗くなってきたので、油皿に油を足して、火をつける。塞いでも塞いでもどこからか入ってくる隙間風に揺れる火で、黄ばんだ紙に残った流麗な墨跡もゆらゆらと動きだした。
「先に読み終わらないでよ」
「いつもどうせ喜八郎が先に終わるんじゃないか」
 もう本に没頭しているのか、一度書見台に反射してから帰ってくる滝夜叉丸の声はくぐもっている。背筋に沿ってぴんと肩から落ちる紫色の制服と、微動だにしない髷の先が見える様な気がした。
「滝と一緒に読んでればね」
「なんだそれは」
 律義に同室者は返してくれたが、喜八郎のスイッチはもう読むモードへと切り替わっていた。あれほど進まなかった読解が、一行丸のまま意味を持つ塊となって喜八郎の脳に流れ込んでゆく。その久々の感覚を楽しみながら、そのうち自分が集中しているということすらも、押し寄せる文字の波の中に洗われて溶解していくのだ。だけれども、そうした読むのに邪魔な感傷が墨色の海に解けていく一瞬、少しだけ流れが温んだ。遠い霧の中に見た灯台の黄色い火のように。
 なんだろう。
 文字を追うのをやめて、一瞬陸の方に舞い戻る。だが、その時にはもうあの灯りは笊の様な喜八郎の自意識からすっかり抜け落ちてしまっていた。気になる、気になるけれども、結局こういうのは考えたってこの感情が何なのか自分に見定められたためしがない。
 やっぱり早く読んで、終わらせてしまおう。喜八郎は今度こそ思い切りよく、書面に意識を没頭させた。頭の中をあの板の間に写された奔流のような勢いで文字が流れていく。再び彼と文字以外のすべての事象は意識から遠のいていくが、どこかで最後の雑念が小さく囁いている。
 早く読んで、これが終わったら、また穴を掘ろう。
 分からないことは、穴を掘り足りないせいなのだから。




  なんとなく、滝に感謝してるんだけど意識に上らない綾部。やればできるのに、やらない人綾部。
  速読できるので、その気になれば物凄く早いと良い。だけど結局変人綾部。