てのひらを太陽に 時期は啓蟄をすこし過ぎた侯。ガラス張りの待ち合いにはうららかな日差しが差し込み、見舞いや診察に来る人々の服にもパステルの色彩が目立ち始める。その中に太陽を浴びて一際明るい、透けるような色合いの茶色に浮かび上がる髪の毛の持ち主がいた。 「竹谷先生はこちらに伺ってますか」 受付でおしゃべりを楽しんでいた鉢谷に礼儀正しく尋ねてきたのは、隣の竹谷動物病院の副院長を勤める伊賀崎孫兵である。 目元涼やかな、という形容詞が似合うであろうその青年はしかし、手にリボンで飾りつけられた蓋つきのバスケットを提げている。不釣り合いな少女趣味のバスケット、その中に彼の愛蛇がいることを知る者はあまり多くない。 そもそも病院はペット持ち込み厳禁なのだが、蛇は大変大人しい上に籠の中に居れば傍目からも分からないのと、伊賀崎がこの蛇なしでは日も暮れぬという有様であるため特別に見逃されているのだ。 「さあ・・・いるとしたら雷蔵のところじゃない?」 「ありがとうございます鉢谷先生」 にっこり笑う伊賀崎の顔がいつもより白い気がしたのは、この燦々と降り注ぐ日光のせいだろうか。 そのすこしあと。 不破医師の診察を受けているはずの患者を迎えに、心療内科への渡り廊下を急いでいた三反田数馬は腰を抜かしそうになった。 何せ行く手には人の手首ほどの太さの蛇がいて、鎌首をもたげこちらを見つめているのだから。凍りついた三反田にお構いなしに、蛇はするすると寄ってきた。思わず救急の血清の在庫を頭の中で数え、真っ白になりかけた時、足元まで近づいていたそれが友人たる伊賀崎のペットだとようやく認識したのだった。確かじゅんこと名づけられ、下にも置かぬ扱いをうけているはずのその蛇は、しきりに三反田の右足に絡みつこうとする。 じゅんこがここにいるということは伊賀崎が病院に来ているということだが、はて彼の姿は見当たらない。サンダル履きの足首に巻きついたじゅんこがやけに引っ張る方向へ足を進めると、それはするりと離れ、先導するように地面を這う。 いまだぼんやりとした頭でそれを眼で追った先、渡り廊下に沿った低いブロック塀の向こう側の、草むらの中に伊賀崎が身体を折り畳むようにして倒れていた。 頭をわずかに塀にもたせかけた格好は、向こうからこちらに這い上ろうとしたのだろうか。塀は三反田の腰までしかないが、渡り廊下を歩く人の目からそこは完全に死角である。 長い睫毛は伏せられ、血の気のない真っ白な頬にわずかに影を落としている。その身体を取り囲む伸びかけの草の中にはたんぽぽやおおいぬのふぐりの可憐な花が混じり、白い蝶が二頭、彼の身体の周りで踊っていた。柔らかな午前の日差しに包まれた、あまりにのどかな春の光景であったので、一瞬三反田は伊賀崎が眠っているのではないかと錯覚する。その一瞬後には、ことの緊急性に気づいて大声で人を呼んでいたのだが。 三反田をはじめ、駆けつけた不破や能勢、通りかかりの久々知によって伊賀崎は救急のベッドに運び込まれた。 交通事故の患者にかかりきりの七松に代わり手伝いの善法寺が伊賀崎を診た結果、ひどい貧血と不整脈だと診断が下る。それに左腕にひびが入っているのは、塀をこえて転倒した時のものらしい。とにかく輸血パックをとりつけ、意識の戻らぬうちに内科の病棟に移されることになった。 年齢が同じであることもあって、伊賀崎と三反田は割と親しくしている。その彼が突然倒れたことで三反田は、自分でも驚くほど動揺していた。内科病棟に戻ってからのそわ そわした働きぶりを見とがめて善法寺が彼を呼ぶ。 「数馬、こっちはもういいから、気になるなら行っておいで。輸液にジギナーゼを40cc足しといてね」 師長のくせに情けないとは思いながら、やはり上の空で礼を言って、三反田は言われた薬品を取りに向かった。 伊賀崎はひとまず個室に収容されていた。顔色はいまだシーツと見分けがつかないほど白く、腕に刺さった管を流れる赤さとの対比が、三反田を不安がらせる。輸血パックの残量を確認し、別の輸液パックに指示通り薬品を足して、もう一度この華奢な友人を見た。数日前会った時は、やっと虫たちが冬眠から覚め出したと言って喜んでいたのに。点滴と輸血のため投げ出されるように布団の上に置かれた腕を、そっとさすってやる。 そのとき突然、春一番が吹きこんだかのような勢いで駆け込んできた人物があった。 よほど急いできたのか、息を切らし、「たけや動物病院 院長:竹谷」と書かれたネームタグの付いたままの水色の上着をひっかけたサンダル履きの男。三反田も何度か顔を合わせたことがある。だが彼は三反田など目にも入らぬ様子で伊賀崎に覆いかぶさり、彼の名を呼んだ。 「孫兵!」 何度目かの呼びかけで、閉ざされていたまぶたが数度震え、色素の薄い瞳が竹谷のそれとかちあう。 「ああ、良かった。餌の仕入れに行って帰ってきたら、平助がお前が倒れたっていうから・・・孫兵、大丈夫か」 「・・・・ぅ」 唇を動かそうとはするものの割れた息の音しかでない伊賀崎を見かねて、三反田が割って入る。 「貧血と不整脈です。安静にしていれば大丈夫ですけど、原因はまだ」 「そうか、ありがとう。そういえば君が見つけてくれたって平助が」 「ええ、まあ。じゅんこが・・」 と、言いかけてはっと気付く。伊賀崎と目が合い、彼の目がすうっと大きくなる。と、同時に、衝かれるようにその口が動いて音声を紡ぎ出した。 「じゅんこはどこ?」 三反田は病室を駆けだした。あの蛇のことをすっかり忘れていた。もしや心療内科の入院病棟にでも入り込んでいたらえらい騒ぎになる。いやあの搬送の混乱の中、もし誰かに踏まれてなぞいやしないか。そういえば迎えに行くはずだった患者はどうした。 多くのことをいっぺんに思い出して、パニックで泣きだしそうになりながら角をまがった時、ふいに現れた人物とあやうく正面衝突しそうになった。 よく見れば、臨床工学技士の初島孫次郎である。普段下がり気味の眉を目いっぱいあげて固まっていた初島だが、混乱している三反田より一瞬早く己を取り戻し何かを差し出した。反射的に受け取って見れば、あのリボン飾りのついた籠である。しかもずっしり重い。 「これ、」 「怪士丸が泣きついてきて、心療内科の診察室に行ったらこれがいたんです。僕、何度かじゅんこに触ったことあるから、途中で籠を見つけて保護しました。伊賀崎さんに渡しに行こうと思ってたけど、ちょうどよかった。」 「あ・・・」 いまだ冷や汗が止まらぬ三反田は、莫迦のように頷くしかない。 「それと、患者さんは怪士丸が代わりに連れて帰ったので、それもよろしく伝えてくれって」 それだけ言って、ぴょこんと頭を下げた初島は足音も立てずに帰って行った。安堵と共に情けなさが押し寄せてきて、いかに自分が普段の状態でなかったか思い知らされる。暗澹たる気持ちになって、じゅんこ入りの籠を抱えてそろそろと病室に戻った。 病室を覗けば、パイプいすを引き寄せた竹谷が伊賀崎の額の汗を拭いてやっており、居場所を失ったような気がした三反田は、枕元のサイドテーブルに籠を置いて一礼してそこを出た。丸めた背中の後ろで、籠を開けたらしい伊賀崎の嬉しそうな声が響く。 「あ、三反田先輩、どうでした?」 ナースステーションに戻ると川西左近に声をかけられた。意識が回復した旨と竹谷が傍についていることを話すと、川西はふーんと言って興味がなさそうに業務に戻っていく。それを目で追いながら在室か否かを示すランプの列を見れば、例の患者はきちんと自室にいると分かってため息が漏れた。 午後は外来が忙しくなる。その前に昼食を摂れば気持ちも切り替わるだろう、そう思って三反田は食堂に足を向けた。 食堂はすでに混みはじめていたが、ちょうど二人掛けのテーブルに座っていた外科師長の浦風藤内を見つけ合流した。 癖の強い外科の看護師たちを束ねる彼も激務のはずなのに、今日もちりひとつ、しわひとつない白衣が目にまぶしい。 その浦風は彼が隣に座るなり目敏く何かに気付いたらしい。 「あ、数馬ってば髪になにかついてる・・・なに、これ犬の毛?」 三反田のふわふわした髪から一本の短い毛をつまみとり、眉根を寄せる。 「ああ、たぶん孫兵か竹谷先生からもらったんだ・・・・孫兵はちゃんと払ってくるから、竹谷先生かな」 「またあの人、そのまま来たの? 病院にはアレルギー患者もいるから、着替えるか掃除機で吸ってからいらしてくださいって、再三申し上げてるのに」 真面目な彼らしい、あからさまに不機嫌な言い方がおかしくておもわずくすりと笑った。 午後の診察がひと段落した頃、善法寺が三反田についてくるよう目配せした。 並んで、伊賀崎の病室に向かう。正直今朝の醜態を思い出して気は重いのだがしかたあるまい。 扉をあけると、だいぶ頬に血の色が戻った孫兵は上体を起こし、じゅんこのかごに手をつっこんでなにやら楽しそうであり、その様子を見守る竹谷もまた嬉しそうだった。 「おや竹谷、自分の診療のほうはいいのかい」 「今日はもう臨時休診ですよ。急患があったら連絡するよう、一平には言ってありますけど」 善法寺の問いに、目も向けず竹谷が応える。善法寺はカルテを見ながら続け、三反田はその影になるように立った。 「手当てしたとき、一緒にいろいろ検査したんだけどその結果が出たんだ」 「どうでした?」 今度は心底心配げな目をまっすぐ向けてくる。 「過労だよ」 じとっと睨まれ、竹谷は慌てて両手を振った。 「ちょ、誤解ですって!倒れるほど働かせてなんていませんよ!」 「じゃあどういうことだい」 普段あたりの柔らかい彼だけに、冷たい善法寺の声は相当な迫力がある。答えに詰まって焦る竹谷に、三反田は少し同情したくなった。だが目を伊賀崎に向けると、俯いてシーツを弄くる姿に戸惑いを覚える。思わず小さな声でその名を呼んだ。 「孫兵」 「・・・ッ、竹谷先生は悪くないんです!」 弾かれたように顔を上げた伊賀崎の目は熱に浮かされたようにすこし潤み、頬にはさっと赤みが差す。 「僕が、勝手にしたことなんです」 「孫兵くん、どういうこと?」 「・・・・診療時間が終わって、竹谷先生が帰られた後、僕だけ残ることが多かったでしょう? あの後、先生に内緒でへびやとかげの診療をしていたんです」 孫兵は今や竹谷のほうだけを向いて話していた。竹谷は怪訝そうにその顔を見つめる。 「竹谷先生の病院は人気だから、ペットの爬虫類も診てほしいって方からよく連絡がありますよね。だけど他の犬や猫が脅えるし、その飼い主さんたちが嫌がるから、うちは哺乳類しか診れないって断っている。けど一年前、僕が一人で片づけをしていたら、イグアナの急患が来たんです。呼吸をしてなくて、一刻を争う状態だった。とても断れなくて僕が診たんです。そのイグアナは手当のかいなく亡くなってしまったけど、」 思い出したのか、点滴がついてないほうの腕でごしごしと目を擦る。 「飼い主さんにはとても感謝していただきました。爬虫類を診てくれる動物病院は少ないから、ここに来てよかった、って。それで、僕・・・・」 「断った飼い主さんたちにこっそり連絡をとって、診ることにしたのか?」 「ええ。もちろん入院はさせられないから、経過観察の必要があるときはそのお宅に毎日通いました。うちの薬や用品を勝手に使った分は、帳簿をごまかしたりして・・・。診察代は頂きましたけど、どうしようもなくて総てとってあります。勝手なことして、本当に申し訳ありませんでした」 他の三人があっけにとられるなか、ベッドの上で深々と竹谷に頭を下げた。 じゅんこが動くしゅるしゅるという音だけが控え目に響く。 「まご、・・」 柔らかい布のような善法寺の声とは違う、低くて小さい、春風のような優しげな声に驚いて三反田は竹谷を見やる。さきほどの消え入りそうな、穏やかな声がこのいかつい体格の獣医から発せられたことが信じられなかったのだ。 「どうして俺に言ってくれなかったんだ。体壊すほど裏で働くなんて。もしお前の身に何かあったら、それこそ俺が一番辛いことなのに」 言いながらその無骨な手は、俯いたままの伊賀崎の頭を優しく撫でている。 「気づいてやれなくてごめんな。お前、爬虫類のほうが好きだったもんな。診療については考えるよ。犬猫を断る日があったっていい」 「そんな、今だって診察希望がいっぱいじゃないですか」 「他の病院が受け入れてくれるさ。お前が必要なら爬虫類だけを入院させられる部屋も作るよ」 今度こそ伊賀崎の両目に涙があふれて、ぼたぼたっとシーツに染みを作った。 善法寺はと見れば、こちらも鼻の頭を赤くしている。何だかいたたまれなくなって、三反田はまたも部屋をひとり出てしまった。 その2日後、伊賀崎は無事退院となった。じゅんこの籠を大事そうに抱え、竹谷(よほど浦風に絞られたとみえて、こざっぱりしたTシャツに着替えている)に連れられて会計を済ませる。 竹谷が来てからずっと、今後の動物病院の運営方針について夢中で話していた伊賀崎が、待合のドアを出るところでふと振り向いた。見送りに出ていた三反田に手を振る。 「数馬!」 にっと笑うさまは別人のように溌剌としている。 「数馬、遅くなったけど、有難う。数馬が気づいてくれなかったらどうなってたかわからないって、善法寺先生が仰ってたよ」 三反田は顔がほてるのを感じた。ついで、自然と頬が上がる。今自分は微笑んでいるのだろうと思った。 病院の戸口を出てさっそく何か虫を見つけたのか、伊賀崎のはしゃいだ声が風に乗り届いてくる。 ああ、願わくば彼と虫との小さな世界が、末長く平和でありますように。彼を見守るあの獣医が、同じくその世界の守り手でありますように。 じゅんこの這う、しゅるりという音を耳の奥で聴いた気がした。 ![]() ![]() ![]() ![]() 竹やんは孫に甘い。それが言いたかった。 あとだれか私に数孫を恵んでください。 |