>いちご大福 白くて丸い大福ひとつ、隣の仙蔵はぱくりとそれにかぶりついた。 なんでも作法の顧問から頂いたものだそうで、足音も軽く帰ってきた彼は文次郎に茶を淹れさせて、早速至福の時を開始したというわけだ。 文次郎は自分の茶を啜りながら、あの陰気な教師が菓子屋で逡巡する様を想像した。自身は甘いものはそれほど得意ではないので、別に仙蔵がひとり大福を食おうが知ったことではないのだが、なんとなく付き合いで湯のみを二つ出してしまったのだ。 一口食べた仙蔵が、あ、と声をあげる。見れば、こっくりとした餡の中央に鮮やかな赤色が覗いている。それは日を浴びて、玄武岩に見出される鉱脈のようにつややかに光っていた。 「いちご大福か」 「そうらしい。あれで案外季節を大事にするお方だからな」 自然と口元を綻ばせた仙蔵は、ほれと言って文次郎にその断面を差し出す。曰く、茶の礼に一口与らせてやろう、云々。 要らんと返し一度はそっぽを向いた文次郎だが、ふと考えなおして手を出す。だが当然のようにその手は無視され、仙蔵の目はきらきらと期待に輝いて文次郎の挙措に注がれていた。仕方なしに片手を間について肩を寄せ、口をあけてその白い餅菓子に顔を寄せた。歯がさりりと果皮を破り、口中に甘酸っぱい味が拡がってゆく。 満足げに大福を戻した仙蔵はしかし、あーっと悲鳴のような大声をあげた。 暗褐色の柔らかい鉱床からはすぽりと宝珠が引き抜かれ、あとには丸いへこみがむなしく残るばかり。 「文次郎、貴様いちごだけ食べたな!」 >星の哨戒 喜三太救出の報につかえがとれたように眠りこんだ乱太郎の寝息を確認し、仙蔵は黒髪を揺らして立ち上がった。決戦を前に気味がわるいほど静まり返った村を横断し、物見やぐらの梯子に手を掛ける。右手が一番上の横木にかからんとした時、聞きなれた低い声が彼の名を呼んだ。 「なんだ、知っていたのか」 「侵入が分からずして何のための見張りだ」 ついに物見台の上に降り立った仙蔵は、遠眼鏡を持った文次郎の隣へ腰を下ろす。空には一面に星が冴え、夜気がしんしんと降り注ぐ。しかしその向こうには篝火がいくつも焚かれ、不穏な揺らぎが夜の底を圧していた。 「どうだ」 「功を焦る兵は今はいないようだ。決戦は明日だろう」 仙蔵の無言の促しを感じたか、文次郎が続ける。 「兵の数はそれほど多くはない。だが厄介なのは火器だな。それと、タソガレドキの忍びがうろついている」 その名を出した時、文次郎の肩の筋肉が強張ったのを見逃さなかった。忍組組頭の見事な逃止の術のことは伊作から聞いている。ではしきりに見えもしない夜の闇を覗きこむ遠眼鏡が探しているのは、その大男の忍びの姿だろうか。それとも陣中で燃える篝火の蠱惑的な揺らめきに魅入られているのだろうか。 どちらにせよ面白くない。 仙蔵はふと視線を落として、思わず息を飲んだ。 眼下に一面、水晶や石英をばらまいたような白い光が輝いている。大粒のもの、今にも消え入りそうに小さいもの。数え切れぬ数の光が静かにまたたくその様があまりに美しく、星が水面に映っているのだと理解するまで寸刻を有した。 「文次郎、見ろ」 遠眼鏡ごしに陣を注視する男の袖を引く。怪訝そうにこちらを見た文次郎が、仙蔵の手の先を見て同じく言葉を失った。 地上の星。上から下から共鳴する宙の調べ。 星々の海を落下する錯覚に、触れ合う手のあたたかさが唯一のよすがのように思えて、そっと手を重ねた。時を置かず文次郎が握り返してくる。 いつのまにか眼下の陣は静まり返り、太鼓の音も聞こえなくなっていた。 >カニバリズム(R15) 「文次郎、私を喰え」 高揚の波が過ぎ去ったあとの脱力感と疲労感に襲われるまま、文次郎は自身を抜くこともせず、どちらのものともつかぬ汗と体液にまみれて怠惰に仙蔵にのしかかったままでいた。だから唐突に彼の下でそんな言葉が発せられた時、ぴったりと密着した薄い胸板の、微かな振動まで感じられたのだ。 「今喰っただろ」 薄目を開けて、戯れ程度に重い腰をゆすってやれば、あれだけ啼いたというのにまだ仙蔵は甘やかな吐息でそれに応えた。 「んっ…ふ…ちが、そういうことじゃない」 再び文次郎の腰は泥に引き込まれるように定位置に沈む。 「文字通りの意味だ。私を喰え。骨の一かけらも残さずに」 快楽の余韻で霞がかかった頭に、かすれた声が茫洋と響く。仙蔵の首に歯を立てた。塩辛い味がした。 「お前が遠い。皮膚が邪魔だ。一点で繋がるだけじゃ足りない。だから最初はお前を喰おうと思ったんだ。そうしたらもうお前と私を隔てるものはなにも無くなるから」 仙蔵は熱に浮かされたように喋り続ける。 「だけどそれだと、私はお前の姿が見えない。声が聞けない。きっと私は耐えられない。せっかくひとつになれたのに、お前と一緒に生きてゆこうと思ったのに」 「だから俺に喰えと」 「察しがいいな」 仙蔵の口を唇で塞ぐ。ぺちゃり、と水音が響いて、舌が絡んだ。仙蔵の口内でぐねぐねと動く柔らかい肉塊を文次郎の舌が抑えつけ、弾力と舌触りを楽しむ。粘膜越しの熱は確かによほど熱かった。唇を離せば、二人の混ざった唾液が糸を引き、仙蔵の白い喉に落ちた。 「悪いな、俺は好きなものは最後までとっておくんだ」 「約束だぞ」 上気した頬を緩めて笑う仙蔵の目尻からは一筋透明な水が垂れていて、舌を伸ばしてそれを舐めとるとやはり塩辛かった。 >鋏 しょきん…しょきん… 授業を終えた文次郎の袖を、仙蔵が不機嫌な顔でひいた。 「髪がのびたな」 こうなると文次郎は、その日の夕方仙蔵から逃れるすべは無い。 現に今こうして仙蔵の前に大人しく座って、彼が鋏で襟足をそろえるのに任せている。 しょきん…しょきん… いつの頃からか、文次郎の髪を切るのは仙蔵の務めになった。 いつ切るだとかどれほど切るだとかは完全に仙蔵任せであったが、彼自身の長く艶やかな髪とは対照的に、文次郎の髪が肩を超すことは稀である。それ以上のびると仙蔵は即座に見とがめて、文次郎は今日のように素人散髪屋に身をゆだねる派目になるのだ。 「なあ、仙蔵」 「なんだ」 「斎藤が」 「駄目だ」 「……斎藤が、練習も兼ねて俺の髪を切りたいと……言っていたがなんでもない」 「よろしい」 しょきん…しょきん…しょ…きん。 「できた」 「おう、ありがとな」 仙蔵は下に敷いていた懐紙の上に、そこからこぼれた髪の毛を丁寧に拾って載せ、いつものように懐紙ごと折り畳んで立ち上がる。 「なあ、いつも思ってたんだが、それどうすんだ」 「安心しろ、呪いの人形の中に入れたりなどせんよ」 「バカタレ」 「ちゃんと捨てる」 「そうか」 文次郎も立ち上がり、自分で髷を結うと鍛錬が待つ裏山へ飛び出していった。残された仙蔵は、ついたての奥からもうひとつ似たような懐紙の包みを取り出して開く。長さは二寸ほどでもその艶と手触りで間違えようもない、それは仙蔵の髪。二葉を両手に持ち、文次郎のそれをもう一方の上に重ねて再び折り畳んだ。 灯火に載せれば、一瞬消えたかのように見えた炎は重なった懐紙の縁から橙色の舌を出し、鼻につく独特の匂いを発しながら包みは見る間に燃え尽きた。 それを確かめて詰めていた息を吐く。鋏を持ったその後に、何度となく繰り返されてきた行為。それは仙蔵だけの儀式であった。 髪には魂が宿るという。ならばこのからだが燃えてなくなるその時は、文次郎に、文次郎だけにこの黒髪を託そう。 文次郎、お前は私の亡き後も、きっと泣きながらこの世を渡ってゆくだろうから。 「なあ、文次郎。もしも仮にだ。私が死んだらお前はどうする」 「なんだ、昨日の授業ではじめて戦場に行って、こわくなったか」 「ばかをいえ。仮の話だ」 「そうだな……あぁ、お前の髪を、ひと房もらおうか」 >ふたつとない 「立花先輩、潮江先輩、こんにちは」 二人をみとめた雷蔵がにこやかに言う横で、同じ顔が無表情のまま一礼する。 「ああ、不破。長次がお前を探していたぞ」 「えっ、なにかあったのかな」 「知らんが早く行った方がいいんじゃないか」 慌てた雷蔵がそれでも丁寧に礼を言って、ぱたぱたと廊下を今来た方に戻ってゆく。 それを見送った三郎は、むっすりと口を引き結んで報を告げた仙蔵を見た。 「これから雷蔵と、今度の火薬のテストに備えて勉強しようと思ってたんですが」 「残念だな」 「まったくですよ! ああ、先輩方に会わなければよかった」 「そう言うな。火薬のことなら詫び代わりに教えてやろう」 妙に機嫌がいいらしい仙蔵はころころと笑って、三郎の肩を叩く。 「じゃああとで雷蔵にも伝えますから、今から部屋に来ていただけますか」 「よかろう、ちょうど文次郎の辛気臭い顔にも見飽きていたところだ。この荷物を置いてくるから待っていろ」 そう言って仙蔵は早くも踵を返し、文次郎を残して歩き去る。これまた無表情でそれを見送った文次郎に三郎はわざとらしく微笑んで見せた。 「邪魔をしないでくださいね、先輩」 すばやく笑みを消して横を通り過ぎようとした青い袖を掴めば、三郎はわずかに目を見開いた。驚いているのではない。あくまで親友の驚いたときの顔だ。文次郎は眉根を寄せてその顔を睨んだ。 「鉢屋よ」 「はい」 「お前がなにをしようと構わんが、あいつの顔を真似たらその時はその皮ひんむいてやるからそう思え」 「おお怖!」 >不在 目を覚ます。 隣の布団はたたまれて、昨日のまま。一寸も動いた気配はなかった。 ちらりとそれを横目で見て、仙蔵は起き上がった。まだ薄暗いが、障子の向こうには時折誰かの影がよぎる。ひそやかなざわめき、釣瓶のかーんという響き、慎ましげな水の音。かすかに鼻をかすめる甘い味噌の香り。 ひとつ伸びをして、名残の熱で誘惑しながら足に絡みついてくる布団をはがしてたたむ。隣のものより無造作に重ねられたそれは、体温と湿気をおびてふくりと呼吸した。 障子を開ければ、露の匂いをのせた朝の空気が押し寄せてきて鼻の頭が冷たくなる。縁側に一歩踏み出して、あまりに冷たかったので少し躊躇した。後ろ髪を引かれる気持ちで後ろを振り返る。 仙蔵の布団は半分だけ開けた障子から差し込む光に浮かび上がり、隣の四角い山は、より一層濃くなった蒼い闇に溶けていた。 仙蔵はふん、と鼻をならして、障子をすべて開け放った。 >いとしの 立花仙蔵。 麗しの君。冷静沈着、頭脳明晰の優秀な忍び。 はっ。 あのわがままで自己中心的で無茶苦茶で、傲岸不遜で自信家で冷笑的で可愛げのかけらもなくて、すぐに不貞腐れるわ物は投げつけるわ、人は足蹴にしていいものだと思ってやがるわ、朝に弱くて寒さに弱くて、そのくせ他人の前じゃ強がって、負けず嫌いで気分屋で気まぐれで、俺を罵倒し倒したと思ったら寂しいだの何だの言いやがって、挙句の果てには照れ隠しに宝禄火矢投げるようなあいつをよく知らないヤツの言うこった! >望月の侯 今宵は満月。ここ数日の重苦しい天気が嘘のように奇跡的に空には一片の雲もない。あまりにそれが明るいので、せっかくの晴れ間というのに他の星々は光るのをやめたらしい。このような夜は、裏山へ続くあの道は、路面の数限りない石ころがぴかぴかと白く光って一本の銀糸のように見えるだろう。頭上の木の葉は一斉に風になびいて陰影を覆し、月影を揺ら揺らと土に落とすのだろう。池の水面は数多の光の粒に彩られ、その真ん中にもうひとつの月を浮かべているだろう。 こんな晩に鍛錬とは笑わせる! 煌煌と光を浴びてランニングでもしているか。あるいはかの詩人のように池にうかぶ月でも取ろうとして、鏡のような光のかけらを纏っているか。見違いようもない的に向かって、安っぽい輝きを跳ね返す手裏剣を投げているか。何が忍びだ、全く滑稽極まりない!馬鹿だ馬鹿とは思っていたが、その姿のなんと愚かなことよ。 お前の一挙一投足は銀の輪郭に浮かび上がり、その目も鼻も口も白ら白らと月の光にさらされている。 だからこんな晩は文次郎よ、私にその顔を見せていればよいのだ。 >くらい 灯りを消してくれ。お前の顔が見たい。 わけの分らんことを。 見慣れた仏頂面なぞいらん。この指が辿るお前の顔、知るのは私だけ。 >ふと まだ先は長い。わずかに登り坂になった道ははるか遠くでふっつりと切れ、白けたへりが闇の中に浮かび上がる。その途切れた道の上、おぼろげな木の影がわかるほどの明るさの空に、上弦の月が浮かんでいる。道と、月。もう長らくこの景色を見続けているためか次第に遠近の感覚が遠のいて、一幅の絵の前で足踏みしているようだ。そうは言っても走り続ければやがてはあの頂上に着いて、今度は先細りながら下る道をずっと見据えることになるのだろうが、月はいつまでも嵌ったように動かない。 潮江文次郎の鍛錬を阻むものは何もなく、そうして彼は毎夜この道を駆ける。 忍ばせた足音の代わり、規則正しい呼吸がその足の回転を伝えてくる。 ただひたすらに動かない月を見据えて走れば、己という意識は限りなく薄まって、くちなしの匂いや土の香りやみみずくの鳴く声やねずみの走る音、そういう環境のひとつに矮小化する。顔にあたるはずの夜風は己を通り過ぎ、砂利を踏む感覚はすでに無い。次第に夜さえ退行し、いつしか世界には月しかなくなった。夜空から切り離されたそれは月ですらない。光るでもなく色が付いているのでもなく、ただ大きさだけがある半円。鋲で打たれたようにぴくりともしない。 ああ、なんて静かな世界! この世界は原初の昔から、この半円だけがぽっかり存在していて、これからも未来永劫動くことなくそよぐことなく形も変えずに、無機物としてそこにあり続けるのだ。 それは寂しいことだろうか。否、はじめからなにも他にないのだから。それなのになぜ、この半円を寂しそうだなどと思ってしまうのだろうか。 まえにどこかでみたことがある。 白い横顔。 仙蔵。 とたん文次郎は、見慣れた夜の林の砂利道の上にいた。足の指に挟まった砂利が痛んで、肺は焼けつくようだ。風は梢を動かし、獣が遠くで吠えている。峠を示す道祖神がすぐ手前にあった。 まだまだ俺も未熟だ、そう胸の中で独りごち、彼は坂を下っていく。 月は変わらずその頭上にあった。 >きのふ いらつしつてください なぜ今なのだ。 今になって私を好いているだの付き合えだの、片腹痛いわ。 なぜきのうでも、おとといでも、いち年前の今頃でもなく、私とお前が初めて会ったあの春の日でもない、今になって言うのだ。 隠しきれぬ熱を帯びた私の視線を、鍛錬だの何だのと言って逃れ続けていたのはお前だった。 無邪気にこの生温い陽だまりに浸かっていたあの頃ならば、お前はなんだって出来たのだ。 だがもう遅い。私は気付いてしまった。 あと一年もせず、私とお前の道は分かれる。 別れが辛くなるだけだというに、どうして今になって契を交わせよう。 私はこれよりひとりで生きるのだ。 ひとしずくの甘露のようなさっきの言葉は、その広い背に手を伸ばしたきのうの私に言うがいい。 私はそこで待っているから。 ああ、お前はつくづく馬鹿だ。期を逸して、この私を失うのだ。 今日も明日も明後日も、お前にはなにもやれない。 おとといきやがれ、文次郎! (室生犀星の同名の詩より) >知らずにわかれた人々 −知らずに永く −わかれた人びとの睫もくろく −何とその数の多いことだらう。 (題名と詩:室生犀星) 残照は疾く失われ、灯のない室内は闇に沈む。正座の足はすでに感覚が無かった。 目の前の仙蔵はぎゅっと拳を握りこみ、唇を結んで畳の目を見ていた。俯く肩に黒髪が流れる。 文次郎の頭の中では、つい先程言われた言葉ががんがんと鳴り響いている。いや、つい先程というのは誤りかもしれない。何せ、仙蔵の口から思いもよらぬ激しい調子で発せられた時には、まだだいぶ明るかった。それ以来、文次郎は硬直したように背を伸ばして微動だにせず、その彼を前にした仙蔵も座ったままで今に至るというわけだった。 ふたりの間には音を失ったあの言葉だけがある。 硝子をたたき割るような、拒絶の言葉。 障子の向こうで、どこかの部屋の明かりがぼうっと浮かび上がった。 文次郎が引き結んでいた口を開く。 下を向いていたのにどうして察したのだろうか、仙蔵はその刹那に立ち上がろうとした。その手首をつかみ、畳に引き戻す。細い手首はひどく冷たい汗をかいていた。 反射的に振り返ったその目をのぞきこんで、文次郎はもう一度言った。 暗さに慣れた目には、仙蔵の頬にしずくが伝うのが見えた。 もうすこしの間もないと、お前は嗤う。 だからこそ、もう一刻の猶予もないんだ。 まちがいに気付かず、去っていってしまったら、ふたたび戻ってくることはない。 今このときを逃したら、そのまちがいの大きさに、ふるえ慄のく日がきっと来るだろう。 〜以降6い祭投稿作品〜 (先に楊野、「その薄膜を突き破る、冷たくすべらかな質感について」をお読みください。) >お前にこれをやろう そのかんざしを贈られたのは、つい昨日の夕刻のことであった。そのときのことを思い返すに仙蔵は忍び笑いを禁じ得ない。なにせあの鬼のようなと形容される潮江文次郎が、その鬼のような形相そのままにちいさいかんざしなんぞを握りしめて、聞いた瞬間噴き出してしまうような(実際仙蔵は遠慮なく噴き出したのだが)かぼそい声で彼の名を呼んだのだから。 鉄のそろばんやら鉄粉やらを弄くり忍具に親しんだその手には洗っても落ちない鉄の色がところどころしみついている。その中であまりに華奢なそれは一際黒い己を主張していたのだった。千鳥を象った先端には小さな緋いざくろ石がつけられてともかくも彩りを添えているものの、赤と言えば華やかな猩々緋や品のよい臙脂といくらでもあるだろうに、よりにもよってどぎつい緋色なぞ仙蔵の好みにはない。 趣味が悪いわけでもない文次郎が何だってこんなものを選んだのか、一瞬彼は目をしばたいた。いきなり、それも女に贈るような品物を差し出されたことより先にそれを怪訝に思ったのだから、あの時は自分も混乱していたに違いない。 「なんだこれは」 「やる」 「それは分かった。しかし、」 「使うならそれにしろ。他は許さん。だが」 目を伏せ、早口で吐き出された言葉は定かではなかったが、仙蔵の耳にはこう聞こえた。 「使ってくれるなよ」 訳のわからんことを、と訝しんだ声はもはや、鍛錬に向かうその背中に届かない。 左手に押し付けられたそれは、血色の悪い仙蔵の掌の上でじんわり温かった。贈り主の体温を宿した鉄の肌を見ていて、ふと思いだしたことがあった。 一週間ほど前だろうか、授業が延びたために人もまばらな食堂で、い組の彼らは夕食をとっていた。話題はその日使った暗器のことに及んだ。斯様に脆い仕掛けの小さな武器が実際に役に立つものか、と疑う文次郎は、無骨だが万能で強靭な苦無の素晴らしさをとうとうと語った。こうなると仙蔵は彼の鼻っ柱を折りたくもなるというもので、無益なことと知りつつもつい議論に乗ってしまうのだ。 「お前はそう言うがな、たとえばこの箸だ」 そう言って、骨ばかりになった魚を所在なげに突いていた自分の箸を示す。 「こんなものでも目を突けばかなりの衝撃を与えられるし、毒でも塗ってあれば相手の腹に突き刺すこともできよう」 見る間に文次郎の魚の目はつぶれ、身は皮から押し出されてぐちゃぐちゃになった。 それを嫌そうに見ながら文次郎がうなる。 「確かにそうだが、敵を捨て身で倒して何になる。ひとりと相対するばかりとは限らんだろう」 「でなければ道はひとつだ」 箸の先端を自分の白い喉にあてる真似をした。 「…箸を持ち歩く忍びとは笑わせる」 「箸と思うな、たとえばかんざしと思えばよい」 「そんなものを持っているのか」 「持ってはおらん。だがいずれ必要になるだろうよ」 「ふん、忍びたるもの舌を噛み切るくらい覚悟しておけ」 鼻で笑う文次郎に軽く腹が立ったので彼の魚を味噌汁につっこんでやり、文次郎の非難の声をおかずに白飯を完食してその場は終わったのだった。 べっ甲や木彫りでは変色が目立ってしまう。だが鉄は、肝要を肚に収めて語らないあの男に似てこの用途には向いている。いつのまにか夕刻の淡いあかりはすっかり消え去って、灯火ひとつない部屋に彼一人が坐していた。左手の物体は温かさを失った代わりに闇を吸い取ったらしく、黒々とした輪郭を脈に合わせて蠢動させている。どくん。どくん。鋭利な切っ先を指先にあてれば、ぷつりと黒い玉があふれ出た。灯の下なら、千鳥にぶらさがるざくろ石と、はてどちらが赤いのだろうか。どくん。どくん。血を吸った鉄の塊が、急にじんわり熱を持つ。どくん。どくん。心の臓から指先までつながるこの命、それを絶つのは、己の血潮より高いあの体温。 その日を思って仙蔵は、かすかに愉悦した。 >そのときまで 細身のくろがね、血を凝めたようなざくろ石。かの人の白い喉に鮮やかに対比する。食堂で見たあの光景。いつの間にか箸は鉄のかんざしに姿を変えた。とろり糸引く死の蜜を、その切っ先に纏わせて。 舌を噛み苦痛に歪んだ死に顔を遺させるくらいなら、自分が手を下せばいい。その場に居合わせることが出来ぬなら、せめてあの小さな鉄が、自分の代わりとなるように。 同時に彼は、あれを購った露天商のひび割れた声を反芻する。 「ざくろ石。古来から、持つ人の身を守るとされた貴石」 >痕 殴る。蹴る。咬む。そうして彼は、同室の男にその証を刻みこむ。 いつか忘れられてもいいように。ある日古傷をなぞって、ふと彼の顔が浮かぶように。 >火中の栗 立花仙蔵の細い項や腰を見ていると、意外と節の目立つその指もなにもかも一緒に、強く強く抱きしめて折ってしまいたいと、そのような衝動を感じることがある。 生唾を飲み込んで目をそらす自分に、おそらく仙蔵は気付いている。 知って、ニヤリと笑って上目遣いに身を寄せてくるのだから始末が悪い。 >よばう 「もんじろう」 「なんだ」 「なんでもない」 振り返った男は少し眉をひそめたが、よくあることなので背を向ける。 「もんじろう」 「なんだ」 「なんでもないと言っている」 「そうか」 また背を向ける。彼は今、読んでいる課題図書があと少々で読み終わりそうなのだ。 「もんじろう」 「なんだ」 今度は顔は向けないが、それでもやはり律儀に返事はした。 「もんじろう」 「おう」 「もんじろう」 ぱたん。 本を閉じて向き直る。 「どうして俺の名を呼ぶ」 「呼んでは駄目か」 「用はないのだろう」 「お前の名が好ましいのだ」 「そうか」 と言って彼はまた後ろを向いて本を広げた。 すぐに読みさしの頁は見つかった。 「もんじろう」 「ああ」 くつくつと笑う声がする。 それきりその夜は名を呼ばれなかった。 |