恋情、または復讐。 脳味噌が溶けて泡立っているような暑さだ。仙蔵の足元の小石が、水気の一つも無い乾いた大地を転がる。うなじに張り付く髪の毛の筋が厭わしい。 目を上げるも、遠くはぼやぼやと蜃気楼に隠れて確かには見えず、この先にあるのが山であるのか海であるのか、仙蔵にはまったく見当がつかなかった。もしかすると、ずっと先までこの荒野しかないのかもしれない。 だが、留まっていては干からびるだけである。半分諦めたような心持で仙蔵はただ前に進む。一歩一歩踏み出す足に、熱をはらんだ大気が蛇のように絡みつく。 誰か居ないのか。いや、人でなくてもいい。とにかく、この石と砂と熱波以外の何かを見たかった。砂埃で黄色みを帯びた空気の向こうに広がる空には、ちぎれ雲一つだって無いのだ、畜生。 と、耳が何か音を拾った。 さらさら。 さらさら。 水が流れている。 熱波に押しつぶされそうだった身がしゃんと起き、歩調が早まった。ずんずんと音のする方に近づいていく。 すると、からからに乾いた大地の真ん中に一本のせせらぎが流れているのが見えた。こんな荒野のど真ん中にあるのが奇跡と言ってもいいほど極々細いせせらぎだったが、水の流れは早く、陽光を反射して澄んでいる。 しゅるり。 と折よく風も吹いてきた。 これでようやく涼が取れる。仙蔵はほっと息をついて水中に手を差し伸べた。 と思えば自分の身は布団の中にあった。 妙だ、と思う間もなくじわじわと意識に登ってくる不快感に、そういえば夕方から風邪を引いて寝ていたのだと思い出された。ぼうっと全身が気だるいような感じで暖かいのは、まだ熱があるからだろう。 なんと理由の分かりやすい夢だったかと、仙蔵は口に出さずに考えた。 既に夜の大半は寝て過ごしたようで、薄青い夜明けの気配が静かに満ちてきた室内には、天井の木組みがぼんやりと浮かび上がって見える。 さらさら。 しゅるり。 おや、夢は確かに覚めた筈なのに、と怪訝に思って顔を曲げれば、障子の近くで何やら身をかがめている影があった。 「文…次郎」 普通に声を出したつもりだったが、腫れあがった喉からは情けないほどに小さな、きりぎりすの鳴くような擦れた声しか出てこなかった。だが、文次郎には充分に聞こえたようだ。 「起きたか、仙蔵」 言いつつ、彼は背中を伸ばして袴の帯をきゅっと結ぶ。そうして右手が綿紐をしごく時にしゅるり、という音がした。 そして、袂や襟の乱れを整えるときに、さらさらと衣擦れの音がなる。 障子紙を背後にしてうっすら浮かび上がる文次郎のシルエットは、忍着のそれではなく、私服であった。 「喉は?そこに水筒があるんだが、飲めるか」 「どこへ行く…」 文次郎が、少し笑った気配があった。暗くてよかったと思う。弁解じみた笑顔など見たくは無い。 「あー、その、な。学園長のお使いって奴だ。悪ィな、こんな時に」 なに、構わん、と言おうとして喉がつかえ、突き放すはずだった言葉は咳となって吐き出される。乾ききった気道が、咳をするたびに引き攣れるので、仙蔵は夢中で枕元の水筒をひっつかんだ。 文次郎が動く。たかが六畳ほどの狭い部屋であるので、ほんの一二歩で布団の傍に来るのには足りる。しかし、身を起こすのを手伝おうとして伸ばされた手を、仙蔵は思いっきり払いのけた。片ひじで身を起こし、ぐっと水筒を傾ける。若干むせそうになるほどの勢いで流し込まれた甘露が、滝のように喉を伝う。夢の中のあのせせらぎを、今味わっている。 「おい、仙蔵」 「水くらい飲める」 体も起こせないような病人を置いていくつもりだったのかお前は、という皮肉は当然ながら飲みこんだ。 「無理するなって。まだ熱があるんだろ」 「何、もうだいぶ下がった」 「伊作が今年の風邪はタチが悪いって言ってたぞ」 「それは下級生たちの話だろう。体が出来てないからな、まだ」 「そうか、ならいいんだが」 と言いつつ、内心仙蔵は布団に隠れて歯ぎしりしたい思いであった。確かに今年の風邪は相当質の悪いものに違いない、何せ、この自分が寝込む羽目になるのだ。そして、こんな時に限って例の池で寝る様な馬鹿はくしゃみ一つしない。立花仙蔵、一生の不覚だ。 急に黙り込んだ仙蔵の様子を何と勘違いしたか、荷物を風呂敷に包んでいた文次郎がためらいがちに咳払いをした。 「…悪ィな、こんな時に」 仙蔵は布団から顔を出した。一体どんな顔をして言っているのか見てやろうと思ったのだったが、生憎夜明け前の室内は暗過ぎて、文次郎の腰を落とした、よく筋肉の付いた輪郭がぼんやりと浮かぶにすぎない。それでもその影になった表情を貫くように睨んでいると、どろりと粘度のある感情が湧きあがるのを感じた。 「伊作が後で様子を見に来るらしい」 弁解じみた口調が続く。 仙蔵は顔をしかめた。お前に看病などされたくない、という言葉が唇の端まで登る。借りを作るのはお断りだ、とばかりに仙蔵の中の矜持が抜き身の刀をかざして喚いている。 それでも、こうして後の事を級友に頼んでしゃあしゃあと出て行こうとする文次郎に、意味も無く腹が立ったのは何故か。 「…伊作か。それはいい。お前より余程頼りになる」 言いつつ、仙蔵はまとめられた文次郎の荷物の方をちらりと盗み見る。荷物は少ない、だが旅慣れた忍びであれば風呂敷包み一つもいらぬほどの軽装備でいくらでも長旅に出られるのだ。忍務の内容は、きっと聞いたところで答えは返ってこないだろうと思った。 「それじゃあ俺は…」 今まで普通の声音で喋っていたくせに、やけにおとなしい音量で文次郎が告げた。そして、そのまま障子に手をかけて引き開こうとする後ろ姿に、 「行くな、文次郎」 と咄嗟に口が動いた。 文次郎が固まる。障子を引こうとした、その不自然に挙げられた肘の先の先まできっちりと、ロウ人形のように綺麗に動きを止めた数秒間。呼吸さえしてなかったに違いない。 それから、ようやく細く張りつめられた息が漏れた。 「…すまん」 障子が開く。細く切り取られて見えた空は、青い夜明けの気配で満ちている。だが、すぐに空は和紙と格子の向こうに消え、文次郎は振りかえらずに出て行った。忍びの足音は聞こえない。 残された仙蔵は、独り布団の中で薄く目を細める。それは、見ようによっては笑みの形をしていた。 そうだ、行け。 私情を挟んで忍務をためらう奴など、私の知る文次郎ではない。 お前が立ち止まらないのは知っていた。そうでなければ言うものか。 そうして、せいぜい罪悪感に悩むがいい。 ![]() ![]() ![]() ![]() 叶えられないからこそ甘えてみる仙蔵。なんでこんなに薄暗いのか。 |