白猫記 からだがあって、意識が後から生まれる。 最初は茫洋とした、どこが上とも下ともつかぬ白っぽいあわいに浮かんでいた。それから気が付けば足が四つ動いていて、耳が動いて、なんだかずっと向こうのほうで動いているこれは多分、尻尾だ。今舐めている前足を見るに、私は猫であるようだった。白い。からだ中どこを見回してもまっしろな猫。仔猫ではない。もうずっと前から小鳥も捕れて、からだを隈なく舐める方法も知っている、一人前の立派な猫だった。 どれだけ猫であったのかは知らないが、その昔は人間だったこともあるらしい。だからこそ、こんなことを考えたりなんぞしているのだろう。猫として生きるには本能さえあればよく、気持ちいい日向にうずくまっていたって余計なことを考える必要はないのだ。 猫の目からすると、人間はいつもせわしなくしている。理由は知らないし知ろうとも思わないが、喧嘩をしたり斬り合ったり、よせばいいのに他人の女をわざわざひっかけに行って返り討ちにあったり、おっとこれは猫も一緒だが。だがそんな人間たちのおかげで、みすぼらしい家々が並ぶこんな田舎であっても食べるものには困らなかった。倉に棲む鼠はいくらでもいたし、少し贅沢がしたければどこかの軒先から干物を失敬すればよい。一度だけ、見たこともない鎧をつけたたくさんの武士が村にやってきて、米だの野菜だのを根こそぎ持って行ってしまった時はさすがにひもじい思いもしたけれど、それはその一回きりであった。何でも、人間のはなしによれば、天下泰平とかいうものがやってきたので、もう戦はなくなったらしい。 人間であった時の名前を思い出す頃には、自由気ままな野良の暮らしを捨て、村の東にある家で飼われるようになっていた。せん・なんとかというのがその名前だ。飼い猫になったとはいえ、縄張りの巡察やよそ者の駆逐、順位を忘れてつけあがる近隣の猫の締め上げとやることはたくさんあって、猫は猫なりにいそがしい。それでもたとえば冷たい雨の降る日なんかに、けして追い出されない軒下を持つというのはいいものだ。 こうして村での地位も安泰になり、食べる物も寝るところもあって、何の憂いもなくのどを鳴らしていられる身分になったというのに、私はなんだか不満なのだった。それは捜しているものが見つけられないような、しかも何を捜しているかもわからないような不安であって、それは日々を追うごとに白い毛皮の内側にふわふわと大きくなっていく気がした。 私を飼っていた百姓が老齢になり、その息子だという男が私を引き取って、住処が西の斜面の家に変わり、その男のちいさな坊やが成人し隣村から嫁が来る頃になると、その不安のために夜も眠れぬようになっていた。私は相変わらずまっしろな毛皮で、鼠をとったり日向ぼっこをしたりして暮らしていたのだが、いつの間にか村の猫たちは私に近づかぬようになっていて、そのうちに随分と知らぬ顔が増えたように思う。 例の嫁は子どもを三人産み、その末っ子が村一番の男ぶりと囃されるようになっても私の身の裡の不安は消えず、なにか分からぬものを毎日ひたすら待つような心地がしていた。仙蔵、というのが私の名前であったと思いだした頃に家が燃えて、そのどさくさで私は家に住む人間たちと離れ離れになった。 よい機会であったので、小川を渡って山を越え、何人かの旅人の伴をして、私はひたすら居を変えた。ただ待つのは性に合わない。なんだか知らないが私のうちを灼くように急かす失礼千万な何かを、こちらから迎えに行ってやろうと思ったのだ。 幾度か季節は巡って、やみくもに動き回ることをやめたのはそれまでになく大きな町に着いてからであった。えど、というのは聞き慣れない名前だった。摂津や近江や丹波はずっと西のほうにまだあると知って安心したのは、人間であった頃は京の近くに住んでいたからだろう。ここは相模をさらに越えたところだという。板東には深い山ばかりと思っていたのに、随分と景色も変わったものだ。 河原の下に身を落ち着けて眺める空は、ぼうと霞んで埃っぽく、時折下を覗きこむ人間の頭で黒く陰ったりした。遠くを飛ぶ烏にはこの大きな街のすべてが見えるのだろうか。そう思って私も高い屋根の上に登ってはみたが、眼下に蠢く人の群れを見るにつけ、なにかを捜さなければという焦りだけが大きくなるばかり、しばらくして無理に高いところへ登るのはやめてしまった。 それにしても、腰で裾をはしょった身なりの男たちが走り回り、台車がひっきりなしに通る往来を見ていると、こうもたくさんの人間が朝から晩まで行き交ってしかも同じ人間でないのが不思議に思えてくる。世の中にはこれほどの人間がいるのに、どうして私の捜し求める人に出会えようか。今はっきりした。私を駆り立て、落ち着かなくさせる何かは、かつてひとがたであったものだ。きっと私が人間であった頃に、私にとってどうしても必要な相手だったのだ。だから生まれ変わった今もこうしてそれを探し求めずにはいられない。もっとも今は顔も煙のようだけれど。 そうして粗末な橋の上で人間の顔を眺めて過ごしていた時、後ろから旗本の馬が来たのに気が付かず、哀れ私のからだは流れに落ちた。渦巻くどぶ色の水をしこたま飲み、毛が足に絡んで重く、さていよいよかと思ったのだが、やはりどうしても死にきれぬ。私を引き揚げたのは、ひとのよさそうな丸顔の若旦那だった。 それからは、日本橋にある大店で日がな一日往来を眺めて過ごした。そこを行き交う呆れるほどたくさんの人間の中に、私の捜している人がいるかもしれないと思ったのだ。勿論私が猫になっているのだから、相手が人間だとは限らない。犬や猿になっているやもしれぬ。過去に食べた鼠のうちの一匹であったかもしれないが、そんな気色の悪い想像は勘弁だし、あの文次郎が田舎の猫風情にあっけなくやられるようならそもそも用はない。文次郎。そうだ、確かにそんな名前であった。なぜこんなにも文次郎とやらを捜して待たねばならぬのか。一匹の猫の寿命をとっくに超える年月を私は生きている。 大旦那が若旦那に家督を譲り、商いの売り物が変わり、私の縁側は取り壊されて倉が立てられた。かわりに石灯籠に座り込んで、垣根越しにやはり往来を眺める。灯篭の足元で赤い金魚が跳ねたが、小魚如きに気をひかれることもなくなった。 刻を追うごとに強くなる日差しが朝顔を萎れさせてゆく。変わり朝顔が流行りであるらしく、向かいの家は簾の前に鉢をずらりと並べて精が出ることだが、主人が遅起きであるので、大方の花はあるじの顔を見ることなくその盛りを過ぎてしまう。朝顔は無人の路地に空しく咲き誇る。 私と文次郎は随分と長い間、一緒に暮らしていたことがある。あとから振り返る時間の長さというのは怪しいもので、一緒にいた時間というのはこうして文次郎を待つ時間より、それどころか文次郎と別れてから人間の私が生きた時間よりもずっとずっと短いかもしれぬ。それでもその事実をのみこうして覚えているのだから、よほど毎日がずっしりと重い、旬の果実を齧るようなみずみずしい日々だったのだろう。その日々を糧に残りの人生を生き、死してなお、こうして生まれ変わってまで逢いたいと願うほどに。 朝顔は日ごと、咲いてはしぼみ、咲いてはしぼんだ。茶色く乾いた花殻が増えるたび、逢えない日数が募ってゆく。あるじはもはや水をやりにも来ない。朝顔は次第に咲く力すら失って、朝が来ても首を垂れてうなだれるだけになった。 文次郎。おまえはどこにいる。私を待たせるとはいい度胸だ。今はもう、白茶けた路面にあの隈だらけの四角い顔が浮かぶまでになった。一晩中、小さな灯火を頼りに算盤を叩いている背中も。ふたりだけでいる時に、仙、と私を呼ぶ、かすかに甘い抑揚も。 ひとつ、ふたつ、文次郎の影が心に湧きあがり、咲いた朝顔の数ほどもむなしい幻影が眼前に浮かんだ。日ごとにそれは増えてゆくのに、一向に当人は現れないのだから皮肉なものだ。 この頃はさすがにからだの自由が利かなくなってきた。私は結局、この石灯籠の上で虚像を抱いて、長い長い生を終えるのかもしれない。そう考えた時、大通りを行く痩せた武士が、ふらりと例の路地に目を止めるのが見えた。打ち捨てられた朝顔の鉢を覗きこむ貧相な武士の姿に、ざわりと背中の毛が逆立つ。間違いない。文次郎だ。 もうまったく前後もわからぬような、熱い波が尻尾の先から鼻の先まで駆け抜けて、それに浮かされるように垣根を飛び越え、文次郎に駆け寄った。やっと会えた。文次郎、散々待たせおって。 おや、これはどこの猫だろう。随分と俺に懐くようだが。 たしかに文次郎はそう言った。足元に擦りついた私を抱え上げ、顔をまともに見てそう言ったのだ。分からんのか文次郎。この私が。たしかに今は猫になっているからすぐに分からずとも不思議はないが、お前の顔かたちがこのように変わっていようと私はすぐに分かったのに。文次郎の生まれ変わりはこれに違いないと、数多の鈴の音が打ち震えるような調べが、からだじゅうに響いているというのに、お前は何も感じないのか。 お前、どこぞの飼い猫ならきちんとお帰り。きっと心配しているだろうから。 猫にそうするようにのどをするりと撫でて、文次郎は私を地面に降ろしてしまった。そのまま歩き出そうとする足を必死で追う。何万日も待ったのだ。見失ってたまるものか。 なんだ、どうしても付いてくるつもりかい。強情なやつだ。 そして文次郎は私の好きなあの苦笑を浮かべて、私を腕の中に抱え上げた。そのまま深川のほうへ向かうらしい。武骨な武士が子猫というには大きすぎる白猫を抱いて歩く姿は往来の視線を集めるようだったが、文次郎は気にもとめない。そのうち、大名屋敷が綿々と続く横町へやってきた。うちの一つへ入るとき、門番の侍がひらりと声をかけた。 おおい、潮崎の。えらく貫録のある猫だな。 どうも惚れられちまったらしくてね、などと暢気に笑う文次郎を引っ掻いてやりたくなったが、そこは我慢するほどの分別はある。せめてと尻尾で腕をはたいてやると、文次郎はこちらを見下ろして言った。 たしかに、まるで千年も生きているようだ。だからお前は「千」だ。 こうして私は、海松家江戸屋敷内勤番長屋住まいの番方武士、潮崎文次に飼われることとなった。番方というのは門扉や要人の警護が主な仕事であり、勘定方でないのが不思議な気もしたが、考えてみれば文次郎は算盤が好きで会計委員になったわけではなく、会計委員としての職務を生真面目に遂行していただけのことだ。 太平楽の江戸では番方は暇を持て余すのが常だったが、文次郎はやはり文次郎、勤めの無い日も刀の手入れや狭い庭での鍛錬に明け暮れているのだった。だが貧乏な小藩の一介の藩士、まともなものを食べていないのだからいくら鍛えたとて貧相なからだが大きくなるわけでもなし、まったくご苦労なことだと思う。 その粗末な食事の中から、文次郎は私に食べるものを与えてよこした。腹が空けば鳥でも虫でも捕ってこられるというのに余計な世話なのだが、文次郎は滑稽なほど私に甘かった。鍛錬の最中でも寄れば頭を撫で、雨が降れば私を捜し、寒くなれば布団を敷いた。人であった頃の私が嫉妬するほどの待遇に溺れて、勘が鈍っていたことは否定しまい。何よりすぐ側に文次郎がいるのだ。この私が藩内で燻る不穏な動きに気付けなかったとしても無理もなかった。 その年の暮れ、餅売りの口上を寒風が吹き飛ばすような晩に、文次郎は夜通し御殿裏門の警護に立っていた。私は煎餅布団から顔だけ出して、折からちらつき始めた小雪を見るともなしに眺めていた。北風に混じって遠方から、忍ばせた足音と刀の鞘同士のぶつかる金属音が耳に入った。それを聞いた途端なんだか居たたまれなくなって、心地の良い布団を抜けて庭へ出た。 この江戸屋敷には文次郎のような藩士の暮らす長屋や畑の内側に、殿様やその奥方の暮らす御殿や役場があって、大きな藩ならいざ知らず海松藩の邸では堀も垣根もなく、ただ土塀がぐるりとその周囲を囲っていた。足音はその土塀の切れ目、文次郎の警護する裏門へ向かっている。長屋の屋根を伝って走っている時、こぉーん、こぉーんと木板を叩く音がした。闇夜を裂くその音に続いて、松明の焦げる匂い、人のざわめき、かんかんという鐘の音が静寂の敷地に溢れだす。 裏門に辿りついた時、濃い血の匂いがした。果たして、うっすら白い地面に足跡が乱れて灰色の泥を積み上げた先に、ひとりの侍が仰向けに倒れていた。文次郎だ。傍らの南天と同じほどに赤い血が地面に染みだしている。ぱっくりと斬られた提灯がいくつも転がり、今まさに御殿の砂利を踏んで遠ざからんとする足音がはっきり聞こえた。二人一組で警護をしていたはずの相方の姿はどこにもなかった。 文次郎は刀を握ったまま、血だまりの中で微動だにしない。割られた木板がすぐ側に落ちていた。近寄って見ると、ようよう胸の上下が確認できた。けれどこの傷では、もうもたない。 あぁーお、あぁーおと鳴いてはみても、誰一人として裏手に駆けつけて来る者はいない。御殿の中からかすかに怒号と斬り合いの音が聞こえ、物の倒れる音もする。薄情な奴らだ。こんな痩せ侍でも、お家の役に立ってきたであろうに。こんな寂しいところで一人で死なせるつもりか。嗚呼文次郎、お前は見捨てられたのだ。所詮下っ端は下っ端、武士になったとて忍びと変わらぬ。ひとりでここで死んでゆく、哀れな文次郎。私だけがお前に寄り添っていてやる。点々と血飛沫の飛んだ頬に頭をこすりつけると、冷たくなり始めた瞼がぴくりと動いた。 千、来てくれたのか 閉じられたと思った薄目が開いて、膜の張った黒い瞳が私を見上げていた。真っ赤な掌が震えながら上がって、そこに白い毛を摺り寄せると、血の匂いに混じって汗のにおいがした。もんじろう、そう私は呼んだ。それはいつもと変わらぬ猫の呻きに過ぎなかったけれど、焦点の合わない文次郎の眼が瞬きをし、血の泡が零れる口の端にわずかな笑みが浮かんだ。 何故だろう、おれはずっと前から、おまえを知っていたような気がするよ 当たり前だ。どれだけお前を捜したと思っている。何も知らずにいい気なものだ。ばかもんじ。どうしてまた私を置いてゆく。私は何も出来ない。見ていることしか出来ない。文次郎。あいたかった。あいたかったのだ文次郎。やっとあえたのにもうゆくつもりか。にゃあお。私はここにいるのに。 せん、またな 文次郎の手が一度きり私を撫でて、ぱたりと地に落ち、それきり掌の震えは止まった。雪が降る。光を失った両の目に一匹の老いた猫が映っていた。白が文次郎を埋めてゆく。私と同じ白い色。文次郎。白。にゃあお。 元禄元年十二月十六日深夜。海松家江戸屋敷の御家騒動は、駆けつけた江戸家老一派の手の者によって鎮圧された。捕縛された元家老らの身柄が引き渡されたのち、屋敷内の御殿裏門近くの灯篭の側で、海松家家臣・潮崎文次の遺体が発見される。その傍らには雪に覆われた地面と見分けがつかぬほどに白い猫が、遺体の側に寄り添うようにして凍死していたという。 ◇◇◇ 「……という話だ」 ぱたん、と本を閉じた潮江文次郎の横顔は、夕方の図書室の灯りにほのぼのと浮かび上がっている。 彫像のような鼻骨の盛り上がりが、闇に沈んだもう一方の横顔との間にくっきりとした峰を形作る、その峻厳なありさまから目を離して、立花仙蔵はふんと鼻を鳴らした。 「で? それを私に語ってどうしろと?」 たまたま名前が同じ白猫と武士の話を読んだからとて感傷的になるなどこの男らしくもない。それはフィクションだし、大体、今は平成だ。 「いや……、なんとなく、俺はお前に謝りたくなったんだ」 しおらしい文次郎の様子に噴き出した仙蔵は、やがて目の端をぬぐいながら、思いがけず真剣な声音で言った。 「それこそ謝るには及ばない。もし私がその猫だったとしたら、お前に謝罪など要求するものか」 だって、その猫はしあわせだったのだ。たとえやっと会えた待ち人に記憶がなくても、どんなに短い間でも、可愛がられ慈しまれて、一緒に暮らすことができたのだ。 その事実の前には、記憶の有無など何の意味があろう。 それに。 「その二人はまた会えたんだろうよ……多分な」 「ああ、そうだな」 ようやく文次郎が険しい眉根を開く。 ひとと獣の境を越え巡り合うほどの絆があれば、きっとどこかの時代に再び会えるだろう。 「帰ろう、文次郎」 仙蔵は文次郎の手首をセーターの上から握る。 「お前のせいで遅くなってしまった。私は肉まんがいいな」 「おう……、って俺がおごるのか」 「当然だ」 文次郎が本を書架に返すのを待って、仙蔵は彼の手を引っ張るように図書室を出た。その足取りはこころなしか弾んでいる。電気の消えた廊下に図書室の灯りが投げかけるオレンジの帯を横切った時、文次郎は仙蔵の影に一瞬、しゅるりとした尻尾がひらめくのを見た気がした。 |