天狗の話 〜長次の場合〜 この事、余人に悟られてはなりませぬ。 悟られたが最後、二度とひとと共には暮らしてゆけぬと心得よ。 長次にはばれた。大概にして口数が少なく何を考えているか分からぬような子どもであったが、人より本に興味があるからと言って他人に注意を払っていないわけではないのだ。むしろ、外側から眺める分、客観的で鋭い洞察を下しているともいえる。それが立証される機会は殆ど無いとはいえ。 小平太は生憎同室者の観察眼に対し、あまりに無頓着だった。 三年生になったころの話だ。 学年が上がってくれば、段々消灯の時間についての意識が薄れてくる。 一日八時間睡眠を取らなくてもいい体力が出来てくるせいでもあり、また次の日に響かない程度の自己管理ができてくるせいでもある。灯油を惜しみつつも予習に励む者あり、青春の悩みを熱く語り明かす者あり、また計算しても計算しても合わない帳簿に頭を抱える者もある。 小平太と言えば、鍛えれば鍛えるほど体力がつくようになったことに喜びを覚え始めて、毎夜毎夜鍛錬に励んでいた。 深更学園の外周を走りこんでいればよく級友たちと鉢合わせし、みな同じことを考えるのだと心強くもあった。 だが、彼らは五夜連続で一睡もせずに鍛錬に明け暮れたりはしない。 一週間の間一晩中帰ってこない同室の男が、それでも疲れ一つ見せずに昼は昼でバレーだのランニングだのにはしゃいでいれば、長次の観察眼を必要としなくたっておかしいと気がつくというものである。 ある晩、夕飯を終えて必要最低限の宿題をやっつけ、さあ鍛錬だと飛び出しかけた小平太は長次に呼ばれた。 振り返ってみれば彼が酷く真面目な顔を―――というか普段とあまり変わらない顔を―――して正座しており、小平太にも正面に座るように促す。別に胡坐だってよかったのだが、なんとなく雰囲気に気圧されて、彼には珍しく数年ぶりの正座をした。 「何、長次?」 ぐりぐりと大きな目を見開いて、小平太は同級生の頭一つ分高い所にある顔を覗き込む。自分から持ちかけたくせに長次はしばらく黙り、(恐らく滅多に何か話題を持ち出さない性格ゆえに切り出し方が分からないのだ)そしてやっと唇が薄く開いた。 前置きも何も無かった。 「お前は何だ」 目の前がすうっと暗くなるような心持がした。天狗の仔である小平太に、母が何度も何度も、噛んで含めるように言い聞かせていたこと。己の正体を、明かしてはいけない禁。 ひとは異質なものを嫌うという、なれば、もしお前がひとではないと分かれば、お前はすぐに石を投げられて追い出されてしまうよ、と母は息子が学校で使うための褌を何枚も畳んで風呂敷に包みながら心配そうに教えてくれた。忍術学園に入る、すぐ前のことだ。 そうであるから年長の言いつけに割合素直な小平太は、心してその教えを守ってきたつもりだった。だが、今長次は何と云った? 誰、ではなく何、で聞かれたあたりからして彼は観念した。 「あ…」 脳味噌の中をたらたら無造作に流れるのは、実は薩摩隼人の隠れ里の出身で倭人とは体のつくりが違うのだ、とか先祖代々の忍びの家系で秘密の特訓を受けて育ったのだ、とかいっそ幼いころに秘術中の秘術である南蛮渡の手術を受けて超人間になったのだ、とか。そうした適当な作り話がそのまま半開きの歯の隙間から漏れだしそうになったが、長次の穏やかだが決して揺らがぬ眼にさらされて、それらは音を得る前にぷしゅうとしぼんでしまった。 正体を明かしてはいけない。 学園に居られなくなる。 母に繰り返し繰り返し云われた事が、昨日のことにように耳に蘇る。 だけど、この長次の眼ときたら! 決して責め立てる様では無い。小平太が嘘をつくだろうと疑っているようでも無い。ただただ、じっと返答を待っている、いつもと変わらぬ静かな眼だ。 だが、それは様々な云い訳で濁った自分の胸の奥底を、いとも簡単に一条の光で照らし出してしまうような眼であった。 長次は口の代わりに、眼で語る。その眼は無言で、小平太が何を言うまでも無く真実を見ている。ここに来て嘘を吐くことなど、なんで出来よう? 「…黙っていて、ごめん」 返事は、無い。 「私は、」 正体を明かしては、いけない。 母の声がした。 「ごめん長次!」 云ったが最後、小平太の体は鉄砲玉の速度で長屋を飛び出していく。 「小平太!」 長次の呼ぶ声は、夜に吸い込まれて消えた。 小平太は走っている。 ごうごうと彼の体を包む風と共に野を走っている。天狗である所の彼の足は、大人の忍者に比べてもなお速い。ばねのような足に踏みしだかれたイチゲが、白く可憐な花弁を黒い闇に散らす。とばっちりを食った花は非難の意を込めてぶるりと身を震わせるが、勿論走る天災はあっという間に遠くへ行っている。 小枝を踏み割り、垂れさがる蔓を引きちぎって、忍者らしからぬ騒々しさで小平太はひたすらに駈けた。 どうすればよいのか、分からないのだ。 長次には結局何も云えなかったが、それでも自分がひとでないことはばれているだろう。 明日になれば、きっと噂は広まってしまっている。そうなれば、あやかしの身の自分はきっと学園には居られまい。 そんな時に限って今まで楽しかった思い出が次から次へと蘇ってきて、知らず彼はぐずぐずと鼻を鳴らした。そのうち鼻水は両目にも湧きあがってきて、顔をぐちゃぐちゃにしながら小平太はなおも駈ける。水滴が一筋、ふた筋と頬を流れていく。容赦なく叩きつける向かい風にさらされて、冷たい感覚が次第に耳まで濡らした。だが、そんなことすら意識に入らない。 暴走列車のようにな少年に眠りを破られて、山の鳥獣がぎゃあぎゃあと騒ぎながら一目散に彼の進路から退散する。鼬、狸、野鼠。蹴りあげる小平太の足に踏み潰されてはかなわじと、背を丸くし、尻尾を振りたてて一目散に、より安全な茂みへと逃げ込んでいく。百舌や啄木鳥は眼を丸くして、ろくに見えぬ夜の闇へめくら滅法飛び立っていく。山は、一頭の巨大な黒々しい獣となり、ぐんわありと頭を振りたてているかのようだった。 だが、そのうち、小平太の頭上を円弧を描きながら追いかけるいくつかの影がある。幹や枝葉がこすれる音に被さるように、嗄声が長く、短く響く。 『おおい、おおい』 『小平太』 『泣いている』 『なぜ泣く』 『知らぬ』 『知らぬが泣いている』 『おおう、泣いているとも』 『なんで泣く』 そのうち、その影のいくつかが急降下し、小平太の進路を切るように飛び込んでいく。未だ止まらぬ彼が風を切って迫る、ぎりぎりの所で影はぐんと高度を上げてかわす。だが、その次の瞬間にはまた別の影が、小平太の目の前へ身を投げ出す。迫る暴風の、速度は落ちない。ふたたびの急上昇。ばさりと羽音がざわめく。 『泣くな小平太』 『泣くな』 『なぜ泣く』 今や走る小平太の前にも後ろにも影が群れ、びゅんびゅんと耳鳴りのような風がうなる。小平太の視界は時に真っ黒な影に遮られ、前が見えないほどだ。 『おおい』 『おおい、おおい』 くそったれ、と上がる息の間から言葉が漏れたその一秒後、一本の蔦が足元に伸びていた。あっと、息を呑んだときには、地面がすぐ鼻先にある。そして、体勢を整えぬ余裕も無いまま、頭から派手にすっ転ぶこととなった。思わず呼吸を止める。べしゃり。 柔らかな地面と言えど、先ほどまでのスピードそのままに叩きつけられた額から、じんじんと橙色の痛みが広がっていく。真っ白だった夜着は既に泥にまみれて斑だ。痛いのか、惨めなのか、悲しいのか、何だかよく分からないが胸を引っかかれるような感情が一気にせり上がってきて、小平太はそのままわんわんと泣いた。 そこへ、先ほどの影が次から次へと降りてきて、人目も憚らず(といってもこんな山奥に人目が在る筈もないが)身も世も無くあああう、あああうと声を上げる小平太の周りに降り立っていく。あああう、と声が上がる毎にその周りに黒い影が増え、またあああう、がある毎に湿った落ち葉が風圧で二三枚舞い上がる。 彼の慟哭に言葉は無い。それは人間というより獣の遠吠えの方が近いというくらいの、ただただ身の一番奥深い所から湧きあがってくる衝動にまかせた叫びだった。時々それを遮るかのように黒い影が一声挟むが、それらを押しつぶしなぎ倒すような、一切の遠慮のない大音量である。 もし誰かが今この瞬間にどこか山奥の木こり小屋で夜を明かしていれば、熊か山犬が騒いでいると思ったかもしれない。小平太のその声にはどこか、人間の声とはとても思えない強い響きがあった。 それでも、大声を出していれば体力を使う。 小平太の周りの地面がすっかりまっ黒けになったあたりで、ようやく小平太は声を上げるのを止めた。 走ったのと叫びすぎたのとで、喉が痛くなってきたのだ。涙もそろそろ引いた。 あとはもう、荒い息としゃっくり上げる声が騒がしい森に響く。 それに被せるように、別の声も聞こえ始める。さっきの黒い影だ。 『小平太』 『泣くな、小平太』 人間にはただガアガアとしか聞こえない、その声を口々に喋っているのは鴉なのであった。こんな夜であるのに20羽くらいの鴉が群れていて、小平太の周りで落ちつきなく歩いたり飛び上がったり、地面をほじくり返したりしているのだ。 『なぜ泣いている』 『我らに話せ』 「ちょ、長次が…」 ようよう重い口を開きかけた小平太がそこで大きくしゃっくりをする。 『いじめられたか』 『まさか』 『天狗がいじめられて泣くものか』 「長次が…」 それでも小平太は同じ言葉を繰り返す。 「…長次が、感付いてしまった。私はもうあそこには居られない」 『だから泣くのか』 『ならば出てゆくか』 『御山へ行くか』 「行きたくない」 小平太が頭を振って、一番煩い手近の鴉を殴り飛ばす。当然鴉もそうやすやすと殴り飛ばされてはやらぬから、拳が首元に埋まる寸前にばさばさと羽音荒く飛び立った。 『何故だ、いいところだのに』 『御山へ行け』 『それはよい、よい』 『人間など、何がよくてつるむものか』 鴉はそれぞれ勝手なことを言っては互いに啼き交わす。そこへだんっ、と地面が揺れた。途端鴉が驚いて一斉に飛び立つ羽音がうるさい。 「お前らなぞどこかへ行けっ!」 一つ地団太を踏んだ小平太の両目から再び涙がせり上がってくる。 『どうした』 『まあ落ちつけ』 「お前らが…私が鴉と話したりするから、だから私はばれてしまったのだ」 『なんと』 『良い話相手だと喜んでいたのはお前ではないか』 「なんで私は鴉と話したりなぞ出来るんだ。人間なら、ずっといつまでもあそこに居られるのに!」 そう吠えた小平太は自分の周りに集まる鴉をねめつける。子どもながらになかなか凄みのある目つきだったが、人間でない鴉には大した効果は無いようだった。それよりぼたぼた地面に落ちる涙を見ては、いちいち飛び上がったり、足元に近づいてみたりしている。 『おおう。また泣いてしまったぞ』 『泣くな、泣くな』 慌てた鴉達が落ち着きを無くし、下枝まで飛び上がったりまた滑空して降りてきたりする。そんな中、一羽の鴉が小賢しそうに頭をちょこんと傾げて小平太に近づいてきた。つん、と小平太の足を軽くつついて注意を引くと、堅そうな嘴をぱっと開く。 『そんなにあの学園に居たいのか』 「そうだ。だけどそれももう出来なくなってしまった」 『何故だ』 ばれてしまったから、と呟く小平太の声は先ほどまでの大声からは想像も出来ないほどに震えて聞き取りにくい。 『誰に』 「長次…」 さっきも同じことを云ったのに、今さらになって鴉がざわざわとおめき始める。 『誰ぞ』 『我は知らぬ』 『知っている知っている』 『誰ぞ』 『先に子供らがじょろじょろ山に入ってきたときに見た』 『それなら我も見たわ』 『声の小さなあの子供』 『おおう、見たぞ、見たぞ』 『それなら先程見た』 『とっくに承知だ』 『違う、つい先ほどだ』 『真か』 『真ぞ』 『何処ぞ』 はっとした小平太が件の鴉を見上げる。「長次が?!山に居るの?」 『泣くな、小平太』 『そんなに残りたくば助けてやる』 足元の鴉が両の翼を広げて、胸の毛を一杯に膨らませた。そうやって大きくなった影は不格好にも奇妙にも見える。 『そうだ、簡単なことだ』 『あの子供さえ居なくなれば』 え、とすっかり涙の乾いた眼を上げれば、そこには一羽たりとも黒い影は残っていなかった。 今までの喧しさが夢かと思うほど、冷たく静まり返った森の中、小平太はたったひとり立ちつくしている。 「今、あれらは何と云った…?」 つい数瞬前なら確実に声高い鴉の叫喚や羽音にかき消されていたはずの音量が、湿った空気の中を容易く泳いで自分の耳に戻ってくる。 ついで物事の理解が襲い来た。毛穴から汗が噴き出る。 「鴉ッ!」 慌てて呼べど、返ってくるしわがれ声は一つも無い。 わんわんと木々にぶつかって反響する自分の声以外、ひたすらに夜のしじまが広がる。 そこへほんの微かな羽ばたきを聞いた気がしては、と上を見れば今しも丸窓のような満月の上をゴマ粒のような大きさの鳥の影が横切った。天狗の卷族である鴉達の翼は並みのツルより強く、既に声が届く距離ではない。続いてもう一羽。 先ほどまで周りにあれほど集まっていた鴉達は、今や総出で小さな少年の姿を、それこそ血眼で探しているのだ。小平太には鴉達が遥かな高みから、あるいは地面すれすれの木立の中を突っ切り、広くは無い裏山の森の中を捜しまわっているのが感じ取れた。 悪いことに今夜は満月だ。 鳥の夜目でも、白く浮きたつ寝巻の色はよく見えよう。 「どうしよう…」 そうして、一羽でもその覚束なげに森を往く姿を捉えたら。鴉達は間違いなく長次を放っておきはしないだろう。不吉極まりない最後の言葉が、少し前の母上の心配げな声と同じように耳元で何度も何度も蘇ってきた。 鴉達よりも早く、長次を見つけださなくてはならない。そして、少々先走り過ぎる感のあるあの鳥たちに、しっかりと云ってやらねばならない。 友人の欠けた学園になど、意味は無い。 また、じわりと目の端に熱い水分を感じた。だが、今度はそれが地面を濡らすことは無かった。 その前に、小平太の体が再び地を蹴っていたからだ。 何としてでも、鴉達より先に長次を見つけなければならない。くるり、と体を常人ならあり得ないような急角度で回転させ、元来た道をひた走りに走り始めたのだが、いくらも行かないうちにばたん、と足が止まってしまった。 めくら滅法走ってきたため、自分の走ってきた道順が思い出せないのである。 もちろん、学園の方角の大体の見当はつく。 だが、真っすぐ森を突っ切って学園に戻った所で、長次に会えるとは限らないのではないか。めちゃくちゃに走った小平太の跡を追いかけたなら、恐らくこの広い森でとんだ見当違いの方向に居る可能性だってあるのだ。 足には自信がある。 見つけるまで森を隅々まで走りまくる、というのも一つの手段だろう。 だが、小平太の眼はたった二つ。数を恃んで空から探せる鴉より先に人間の子ども一人見つけるのは、いかに体力には自信のある小平太でも無謀な挑戦であることは分かる。体は一刻も早く走りだして、長次の方に駈けつけたい。こうしている間にも、鴉が先を越しているかもしれない。だけど、それではだめなのだ。 そもそも、今夜も衝動のままに走りだしてきたせいで、長次が自分を追いかけてしまったのだから。 体の思うように動き回るだけでは、だめなのだ。 小平太はぎゅっと拳を握りしめて、今にも飛び出してしまいそうになる心を抑えた。 「どうしたらいい?…長次だったら、どうしてる?」 じめついた腐葉土の上に胡坐をかいて腰をおろし、小平太は必死に頭を絞った。すぐに立ち上がろうとしてしまう足首を全身で抑え込むように猫背になって、彼はうんうんと唸る。小平太の記憶の中にあるのは、威丈夫で力の強かった父から聞いた一言である。 昔昔のこと、小平太は一人ワラビをとるために林に入り、うっかり帰り道を忘れて夕刻までさまよった事がある。だいぶ暗くなって、やっと、夕飯の煙が里から立ち上がっているのを見たときは随分とほっとしたものだ。 その日の夕餉、今日一日の冒険を聞いた父親は、天狗が道に迷うとは情けない、とまだ小さかった小平太のつむりをぐりぐり撫でながら笑い飛ばした。そして、自分なら鼠っこ一匹がどこで昼寝しているかまで分かると言って胸を張っていた。 もともと、天狗とは識る者である。 四方千里を見通し、風を読み、地脈水脈を辿り、妙薬秘薬の在り処を須らく知るのが天狗の天狗たる由縁だ。 もし父の言うことが本当ならば、自分にだって同じことができるはずだ。 だが悔しいことに、一体どうやって知るのか聞いたことがない。いや、聞いたのかもしれないがすっかりそんな記憶は抜け落ちている。何か道具が居るのか、それともマントラか。 なんであの時ちゃんと聞いておかなかったのだろう。すごいすごいと、無邪気にぶっとい腕にぶら下がっているばかりではなく。 だが、後悔はそもそも彼に向いていない。うーんうーんと考えているうち、小平太の顔付が変わってきた。もともと、行動するタイプである。道が無ければ、藪に突き進んでみるのが信条であった。 ふんっ、と鼻息を一つ吐く。 大体、父も豪快な人である。七面倒くさい道具立てだの、呪文だのを使う人には見えなかった。 要するに集中すればいいのだ。 卷族の中でも一番下っ端の鴉などに、曲がりなりにも天狗の自分が負けてなるものか! また一羽、黒い影が月の下端をかすめていったのを見ながら、彼はふうっと息を丹田の方から押し出していく。腹から出ていく息と同じくして、視界からも光を追い出すように、ゆっくりと目を閉じていく。 両手を地面に押しあてれば、細かな泥の粒子が爪の隙間に入り込むのを感じる。生きた土の匂いが立ち上った。 未だ探しているのか、鴉の啼き交わす声が遠くに聞こえる。 真言の代りに、チョウジ、チョウジと低く呟き続ければ、それも次第に気にならなくなってきた。 心が落ち着いて行くのと反比例して聴覚に流れ込んでいく、夜の隙間に生きる者どもが立てるひそやかな足音。天の星々から降り注ぐ微弱な電子。音であり、気配であるそれらが全身の血管を柔らかに満たす。 ひたすら友の名を呟きながら、その淡やかな感覚に身を浸し、じっと小平太は待った。 すると、不思議なことが起こった。 夜着に包まれた小平太の全身が縮んでいくのだ。否、もしここに傍から眺める者が居たのなら、彼には何一つ変化は見えなかったはずだ。ただ、うずくまって目を閉じている少年が一人。動きは絶えて無い。 だが、小平太はびくり、と体を強張らせた。確かに自分の体内と外界との境目である身体意識が、確かに徐々に体の中心へと狭まって行く。縮むと同時に密度を増す体は、段々と中へ、下へ押し込められて行く。小平太と言う生き物の自意識が、地に繋がった両の掌へと、ゆっくり集中していくようであった。 そうして普通の子どもの体格であった彼が、この春生まれた小熊の大きさになり、じっと穴倉に潜む兎になり、ついには尻尾を丸めて縮こまる野鼠になり、ちっぽけな小石一つのサイズになってしまうと同時に、彼は段々と人の体から解けていく。 両の掌から、彼という意識が地面に沁み出し、雨水がゆっくり腐葉土に吸い込まれるのと同じ速さで地層に染み渡っていく。絡まりあう種々雑多な木の根、その一本一本をエネルギーの塊となって駆け抜けていくようであった。 地表に残る『小平太』が何処までも小さくなっていくと同時に、土の中の『小平太』はどこまでもどこまでも、薄く薄くみずからを溶かしていく。希釈され、拡散したその意識は、地表に残った体を中心としながら、地下水に沁み込み清水に溶け込みその範囲を広げている。最早、小平太と言う人間、或いは天狗は残っていなかった。腕は鬱蒼と交差しあう何千もの木の枝であり、体は沢に転がる岩であり、目は幾万と土の隙間に潜む微塵の、幾億個もの目である。 いつしか、彼は山の一部となっていた。 ただ暗い瞼の裏を見ていた視界に、一声放たんと嘴を開く鴉が見え、その黒羽が遮る月光が透けて見え、深夜の騒ぎに寝ぼけた小鹿の濡れた瞳が高速で万華鏡のように移ろってゆく。風に揺すぶられる頼りない梢や、何かの爪痕が深く刻まれたかさついた樹皮の間を、一羽の蛾が不格好な羽を広げて前へ飛ぶ。地中をひっかく鼠の爪先の音に驚き、ちょうど鼻先を出したひめもぐら。それら幾つもの景色を、彼は同時に見ていた。 万物が、一緒くたの濁流となって小平太の中を駆け抜けていくようだ。 それは例えば、全く光の差し込まないすすきやヨシの中を、一条の光を掲げながら走り抜けるのに似ていた。生身の時よりはるかに多くの情報が流れ込んでくるのだが、それでも山全体を即座に把握するには及ばない。もし彼が純粋な天狗であればあるいは、たちどころに千里を見れたかもしれないが、生憎のところそこまでの力は無いのだ。 逸る気持ちを抑えつつ、ただ白い夜着の姿を探しながら、小平太は意識をありとあらゆる方向に飛ばしていく。 と、そこへ。 草履だけをつっかけた、二本のまだ細い足が見えた気がした。 長次! ぶるり、と一瞬前まで微動だにしなかった体が跳ねる。と、同時に彼は再び人型に戻り始めた。散らばっていた意識が、掌に白熱の光点を作りながら一極化し、どっと流れ込む。 そして極限まで矮小化していた身体感覚が、一気に膨らんでいく。 それはあっという間であった。すう、と息を吸えば、もう彼は何処とも知れぬ森の片隅にうずくまっていた。と、まだ熱い気もする掌を握りこみ、ばねのように立ち上がる。足は力強く地面を蹴り、前へ。 「長次!待ってろよォォォォォ!」 雄たけびを引きながら、再び暴風の勢いで小平太は藪に突っ込んでいったのだった。 長次はとりあえず困惑していた。 あまりに同室者の体力が底なしなので、ここ最近うすら怖い気がしていた。長次が分かる範囲では、ここ4晩は部屋に帰ってきていない。なのにまったくつかれたふうも見せず今晩も元気に特攻していこうとするので、思わず呼びとめたのだ。 そうして他に上手い言葉も見つからず、結局直球で聞いてみたら、いきなり切羽詰まった顔をして飛び出して行ってしまった。 その速かったことといったら。 慌てて追いかけようとしたら、もうどこにも彼の姿は無かったほどだ。だが、確かに様子がおかしかった。このまま放っておいてはいけない、迎えにいかなければいけない、と長次は珍しく使命感のようなものを強く感じて、今日に限って人気のない学園の裏手に入り込んだのだった。 幸い何も考えていないまま走っていたようで、踏み倒されたり枝を折られたりした茂みがあちこちにあった。 忍びらしく痕跡を残さぬように進もう、などと変な気を回す奴でなくてよかった。内心ほっとしながら、ともかくその破壊の跡を辿ってみたのだが、どうも途中でその目印も怪しくなってしまった。本当にこちらでいいのか分からないし、どんどん森も深くなってくるし、どうにも進みあぐんでいたところに一羽の鴉が舞い降りたのが数分前。 夜目が利かないはずなのに、珍しい。 もしや、羽に怪我でもして飛べなくなってしまったのかと手を伸ばそうとした瞬間、その鴉は耳をつんざくような大声を上げた。 それからだ。ありとあらゆる方向から羽音が響いて、あれよあれよと言う間に長次の周りが鴉で埋まってしまった。 その数十羽もの鴉が今、長次を四方から睨みつけていた。 自分の腕の長さほどもあるような体を、すべすべと月光に照らしだした鴉が地面から見上げている。目の前の枝にも止まっている。ばさりばさりと、また一羽舞い降りてきた気配がする。 豆粒のような、だがぎらぎらと燃え盛る赤い目が何対も、長次にじっと注がれていた。 もしかしてねぐらに踏み込んでしまったのだろうか。 そっと下がろうと後ろを見たところで、闇にはやはり赤い炎がびっしり浮かんでいた。 ガア、と一声、鋭い啼き声が放たれる。 途端に四方八方から同じくらい激しい勢いのだみ声が湧きあがった。首を上下に振りたてている鳥もいる。羽を広げて威嚇をする鳥もいる。 いくら相手は鳥だろうと、あの太い嘴で突かれれば痛かろう。枝をしっかと掴む足爪だって、随分と鋭そうである。本能的な恐怖から長次が後ろずさった。 その瞬間に激しさを増す啼き声。 もしも眠っていたところを邪魔してしまったのなら、立ち去ろう。雛をどうこうしようなど、露ほどにも思っていないのだから、頼むから。だが、退路はすっかり断たれてしまっていた。進むも鴉、戻るも鴉。体格の大きい人間の自分を怖がる様子など全くない。 そっと懐を探ったが、なにせ慌てて出てきたために武器になりそうな物など何もなかった。 しょうがなく、足元の小石を拾う。 しかし、それがいけなかった。いざとなれば投げつけられるように、と構えたのを見るや否や、鴉の昂奮が最高潮に達したのだ。ひと際高くなった鴉の声が鼓膜を埋め尽くす。何匹かが宙に舞い上がった。 そら来るか、と石つぶてを握る手に力を込めた、その時。 「待ったァァァァァァァァァァァ!!!!!!!!!!!」 何十匹分の啼き声より更にでかく、山全体を叩き起こすかのような大声。萩の茂みを真っ二つに割り倒して、小平太が飛び込んできた。 進路に居た鴉が、ギャアギャアと騒ぎながらぎりぎり飛び立っていく。頬に打ちつける風。 一瞬で目を丸くする長次の前に躍り出ると、そもそもの元凶である彼はにかっと白い歯を見せた。 「よかった、間に合った!」 「小平太!」 そうして長次にそれ以上何を言う暇も与えず、小平太はくるりと背を返し、あわてふためく鴉の群れに向かって拳を振り上げたのだった。 「あぶな…」 危ないから刺激するな、と言おうとして、小平太が何か大きいものを持っているのに気がつく。それはまだ葉のついたままの、立派な枝ぶりの一振りであった。長さは身長の半分は優にある。折り取ってきた、というにはあまりにも太すぎる根元を見るに、かなり幹も元の方から生えていた生木の一枝を、無理やりむしり取ってきたらしい。 随分とワイルドなその刀を振り回し、小平太は叫ぶ。 「いいか、お前ら長次にちょっかい出してみろ、一羽残らず首をひねって、食堂のおばちゃんに持っていってやるぞ!」 「…どうするつもりだ」 半分驚き、半分呆れて口をはさむと、 「焼き鳥だ!」 と至極明快な答えが返ってきた。鴉の焼き鳥とは、旨くなさそうだなどとあまりのことに現実逃避し始めた頭の片隅で思う。 それはどうやら鴉も同じなようで、ギャアギャアとまた一斉に嫌そうな声が上がった。 「うるさい!私がいつお前らにそんなことを頼んだ!」 ぶん、と枝がしなり、手直にいた一羽が吹っ飛ばされる。 ぼけっと見ているだけの長次は、そういえばさっきから口が半開きになっていて、慌てて唇を引き結んで唾を呑み下す。乾いてしまった頬の内側を自分の舌で撫ぜながら、とにかく小平太を落ち着かせようと肩に手を伸ばし、そして届く前に引っ込めた。 「いいからお前たち帰れ!」 と小平太が絶叫したからである。 「そうだ、だけどもういいって。知れてしまったんだから」 彼は興奮した時の癖である早口のまま、とうとうと喋るのを止めない。それも、長次に向いてではなく、鴉に向けてである。 めっちゃくちゃに枝を振る小平太を遠まわしにしたまま、鴉は襲ってくる様子を見せないが、そのかわり口々に喧しい声を上げた。 小平太は何の話をしているのだろう。 「…わかった、戻るさ、戻ってやる。御山に行く」 長次にはまったく意味不明のことを喋りながら、小平太はどんどんと地面を踏みならした。 「だから、長次はもう関係ないだろ」 「…こへいた」 遠慮がちに出した声は、止むことを知らない鴉の叫びにかき消される。 「もういいんだって、本当に。御山にだって帰るんだから。大体初めから正体知られたら帰るって言ってたんだから」 正体?正体と言ったか今。 これではまるで、 鴉と喋っているようではないか。 つい耳を澄ませてみたが、鳥の喉から飛び出すのはどうしたって普通の鳴き声であって、言葉など一つも聞き取れない。だが、小平太は激しく頭を振りたてて近づいてきた一羽に向かうと、 「違う違う、いい加減分かれよ」 と枝を振り回さないまでもいらついた口調で話しだす。こんな真夜中に、鴉に囲まれたと思えば頼みの綱の小平太がこれである。何が何だか分からなくなってきた長次はもう、己の立っている地面すら危ういような錯覚に陥った。 「小平太!」 思わず、肩を掴む。 そうやってつなぎ留めないと、目の前の級友が闇に溶けてしまいそうだったからだ。掌に堅い骨の感覚と、いつものように高い体温を感じ取ってほっとする。 葉っぱだか枝だかを思う存分絡めた、拙い鳥の巣のような頭がゆっくりこちらを向く。月明かりに、白目がぐりぐりと光っている。それが数瞬柔らかく解けた、と思うと小平太の肩に乗る手に高い熱が被さるのを感じた。目を落とせば、片方の手が長次の右手を覆っている。とん、とんと軽く撫ぜるように叩かれて、あんなに堅く掴んでいたはずの長次の指は解けて肩から落ちてしまった。 え、と思って顔を上げれば、もう小平太の顔は鳥の巣の向こう側に隠れてしまっていた。そのざんばらの髷を揺らし、彼は叫ぶ。 「そういうことだ、鴉!もう去れ!」 獣の咆哮にも似た、野太い声だった。同じ年の子どもであるのに、長次の知っている誰の声より、腸に直接叩き込まれるような声を出した。 見えない津波のようにその一言が二人と鴉の間を渡り、静謐な森の奥へと吸収されていく。 答えるかのようにかあ、と今度は何とも間の抜けた、同じ鴉とは思えぬほど小さな一声が上がる。一羽が音も無く飛び上がった。と、つられるようにしてまた一羽、二羽と黒い体が頭上に消える。そのまま取り巻いていた鴉は次から次へと舞い上がり、あれよあれよという間に二人の周りには一羽の影も無くなってしまった。 静けさが、じんと耳に響いて痛い。 そのまま小平太まで飛び立っていってしまいそうで、今度こそ長次はしっかり掴もうと手を伸ばし、 「長次」 向き直った小平太の前で、その手はむなしく宙を切った。 「黙ってて、ごめん」 小平太は下を向いている。 「…お前は」 すう、と息を吸う。首を上げ、真っすぐ前を向いた小平太の、まん丸の瞳とかち合う。 「俺の親父はな、天狗だったんだ!」 天狗。 この級友が人外であるのはさっきから十分見せつけられていたが、とっさのことに長次は何も反応を返せず固まる。 「え…」 ゆっくりと小平太の唇の両端が上がる。首を一振り、二振り。 「もう、帰らなきゃ…」 一転、息だけを使って囁かれた言葉。帰る、というのが自分たちのあの長屋で無いのは明白だった。 考えるより先に、長次は手を出した。 ぎゅっと、今度こそ今度こそ小平太の泥だらけの手首を捕まえる。 「…長次?」 何と言えばいいのか、分からなかった。分からなかったからただ、長次は下を向いて、手首を掴んだ手に力を込めた。 どこかで、姿は見えねども鴉が一声放った気がする。まるで、小平太を呼んでいるようだった。 だが、視界に入るこれまた泥だらけで、ひっかき傷だらけの裸足は動かない。大丈夫、この手首さえ離さなければ。まるで十年来の仇でも見ているかのように、ぐっと眉間にしわを寄せて、長次は小平太の足を睨み下ろした。 また一声。さっきよりも遠いかすれ声が飛んだ。 「長次」 自分の名を呼ぶ声は、何時も通りの高い、子どもの声だった。 長次には分からない。どうしてこんなに不安になるのか。小平太からは何時も通り、土の匂いと汗の匂いがして、掴んだ手首の下にはもう筋肉を纏い始めた肉と骨が確かに在るのに。だけれども今彼らの周りを満たす青い闇が、小平太とその空気の境目をぼやかしているような気がした。今にもその背中から真っ黒い翼がにゅっと生えて、手の届かない高みに消えてしまうような気がした。喉の奥にせり上がる、この引き攣るような酸性の不安を吐き出そうとして薄く口を開く。 だが、その奥にスタンバイしていた言葉がなんであったにせよ、それは外気に触れた途端に崩れてしまい、長次の喉は意味も無くひゅうと鳴っただけであった。 代わりに、ただ首を振る。 「…いいの?」 遠慮がちに呟かれた声に、何か答えようとして顔を上げれば、そこには恐ろしいほどに真剣な顔がある。この暗さで見えるはずも無いのに、目の縁が赤いような気さえした。青白く照り映える白目の中央で、暗く円い海に、満月が一つずつ浮かんでいた。静かで、波も無く、そこだけ別の世界のように在った。 よく見れば、小平太の輪郭は自分と同じようにただ暗くて見えにくいだけであったし、背中に翼など生えてはいなかった。 ふうっと漏れた息とともに、あの嫌な不安は鼻から抜けた。 「…帰るぞ」 それだけを言って、踵を返す。 繋がっている小平太がいきなりの事にバランスを崩したのが分かったが、構わず進みだす。小平太もすぐに体勢を整えた。 手首はしっかりと握ったまま、若干早足で、森の中を引き返す。まるで手負いの大きな猪が突っ走った跡のようにあちらこちらに残る真新しい跡。それを辿れば学園の方向を知るのは容易かった。 草履履きの足が、柔らかな土を踏む。ざらりとした小石が稲藁を通してまだ柔らかい足裏に食い込む。 裸足の小平太はさぞ痛かろう。 とはいえ、彼はしょっちゅう裸足で駈けまわっているゆえに、足裏はどんなに洗っても堅く黒ずんでいるのだったけれど。 無言で長次は歩いた。 引きずられて歩く小平太も無言だった。 もう鴉の呼ぶ声は聞こえなくなっていた。 夜の森では恐るべき相手である山犬も、今夜ばかりはうろつくのを控えているのだろう。ただ静寂という音が満ちるだけの、月の綺麗な晩であった。 次第に長次のそれこそ握りつぶすかのようだった握力が緩み、ただ軽く手首の周りに輪を作るだけになってくる。 小平太の一歩が段々と大幅になり、最初はぴんと張っていた腕がたるむようになる。 そうして二人の少年はほぼ横に並び、獣道というには広い木々の隙間をただ黙って歩いた。お互い走ってくる時には夢中だったためかあまり感じなかった距離だが、こうして歩いているとどこまでも同じような景色が続く。道には自信があるが、変わらぬ景色に心細さが次第に募る中、右手のなかの熱だけが確かにあった。 ふと目前の藪が切れた。 と思えば彼ら二人は長屋の近くの庭にたたずんでいた。人気は無く、誰ぞのいびきも聞こえない。 燈火は貴重であるから、庭から広がる長屋はどれも影に沈んでいる。だが、一点だけ厠の傍にある常夜行燈が温色の灯りを抱いていた。 その光を見た時、長次の肩からすうと力が抜けた。と、同時に小平太の足が止まった。 急に引っ張られた肩に何事かと振り返れば、白い歯がきらりと月光に光った。もうただ添えているだけだった手首が振りほどかれる。 「私は嬉しい!」 そのまま天を仰いだかと思うと、小平太の遠慮一切無しのまんまがぶつかってきた。思わず長次が数歩前によろめくのもお構い無く、彼は首に腕を絡ませてひっひっひと照れたように笑う。 「いいんだな?!私はまたあそこに戻っていいんだな!?」 背の低い小平太がぶら下がるせいで、少々息苦しい。 「こら、離れろ」 そう言ったが小平太が離れる気配は無く、ついには後ろ向きに尻もちをついた。振り仰いだ先に、月と息詰まるほどの一面の星がある。 よかった、よかった、ともう文脈も何も無く繰り返す小平太のごわごわの髪の毛を頬に感じながら、長次はゆっくりと夜気を吸い込む。 「よかった」 低い声で自分もそう呟けば、汗と泥の匂いに混じって清々しい夜露の匂いがしたが、いつもよりも鼻につんときたのは気のせいだったか。 何が何やら分からないが、自分はどうやら随分と大きな決断をしたらしい。もし追いかけなければ、小平太とはもう会えなかったのかもしれない。よかったよかったと半分涙声で言い続ける小平太に抱きつかれながら、今さらにしてそうした胃の腑が冷える様な理解が追いついてきた。 そうしたら、長次の夜着をぐちゃぐちゃにしながら胸のあたりに引っ付いている小平太が何だか、どうしようもなく小さい生き物のような気がして、長次はゆっくりと壊さないように気をつけてその背を撫でるのだった。 目を上げたところの空に、一筋、巨大なよばい星が鮮やかな尾を引いて駈ける。燃え尽きるじゅっという音すら聞こえてきそうな、刷毛ではいたような明るい尾であった。 「小平太、上」 ぐずぐずと鼻を鳴らす音が止んで、「え」と素っ頓狂な、むしろこの場では間抜けともとれるような返答が返ってきた。 「空」 こてん、と長次の横に転がるようにして寝転がった小平太は言われるがまま空を見たが、真珠色に輝く月と星空以外、何も変わった所は無い。 「どうした?」 「流れ星が…」 言葉を途中で切り、まぶしいばかりの夜空を睨む。だが、どんなに見ても星空はしんと静まり返っているだけで、あの大きな尾は何処にもない。 「流れ星?」 小平太も数瞬じっと目を凝らしたが、もう飽きたと見えてぱん、と両手を地面に振り下ろした。体はゴム仕掛けのように跳ね上がり、若干両足が飛び上がる程の勢いをつけて彼は立ちあがる。 もぞもぞと夜着のたもとを整えつつ長次も起き上った。そのまま部屋に戻るかと思えば、思い出したかのようにこちらを振り返った。 「でもさ、どうしてばれたんだ?普通にしてただろ」 「…お前…あれを普通と言うか」 「何が」 「人間は夜は眠るものだ。体力には限りがある」 「そうなのか?だけど文次郎とかはしょっちゅう起きてるぞ」 「あれは、無理をしてる」 指を立てて瞼の下を叩けば、言葉にせずとも意図は伝わり。「なるほど」と小平太はぐりぐりと目を動かして大げさに頷く。 「このままではそのうち皆に知れるぞ」 「うん、それは困ったな。どうしたらいい?」 至極無邪気に聞いてくる同室者に、どこか遠い頭痛を感じたのは何もさっき押し倒されて頭を打ったせいだけではあるまい。 「…二日に一回は長屋に帰って寝ろ」 「えー、せめて三日」 「二日」 「だって私は五日はいけるぞ」 「二日だ」 「長次のケチ」 騒ぎ立てれば、先生方に見つかってしまう。段々音量が大きくなってきた小平太の口をむんずと抑えれば、後は長屋の部屋へ戻るだけだ。 もしかすると、人間とは何か他にも色々教えてやらなければならないんじゃないか。面倒くさそうな予感に一つ溜息を落とし、長次はそのまま連行していった。 翌朝、縁側から泥だらけの足跡が真っすぐ小平太と長次の部屋に続いていて、二人揃ってお小言と廊下掃除を仰せつかったのはまた別の話である。 |