―なぁ文次郎。
―なんだ。
―お前は泣くのか。
―何を唐突に。
―こういう晩にだ。しんと静まり返って、月がほれあのように美しく、草むらを海のように照らしだす晩に、お前は私を想って泣くか。
夜風がしずかに吹いて、銀色の波がこちらからあちらへと渡っていく。
―学園を出たら、お前も私も忍びになる。忍びが女々しく誰かを想って泣くなぞ、お前にはできぬだろう。
―俺は泣かん。
―それ見ろ。
―今は流れが速いだけだ、岩に割かるるとも川は流れ続ける。俺はそう信じて泣かん。
息をのむ気配がした。
―……ばかもんじ。
瀬をはやみ
岩にせかるる滝川の割れても末に逢はむとぞ思う
(流れがはやいので岩によってわかたれてしまった川が、結局はまた合流するように、今は別れてもまたお逢いするでしょう。なぜならそれが、私と貴方のさだめなのですから!)
三木ェ門は呆然と起き上がった。
見慣れた障子にうつる柱の影は弱々しく、夏も近いこの時期、起床にはまだ早い刻限であることを知らせている。
たしかにこの手に触れていたのに、と目を落とせば黒々と闇があるばかり。
目を擦ろうとして、自分が泣いていることに気付いた。気付いてしまえばあとからあとから涙はあふれ出て、頬に冷えた二条の跡をつけた。
同室の友を起こさぬよう、三木ェ門はひざに顔を埋めて、静かに嗚咽した。
思いつつ寝らばや人の見えつらむ
夢と知りせば覚めざらましを
(愛しい人のことを思いながら寝たので、夢に現われたのでしょう。夢と知っていたら、目覚めたりなぞしなかったのに!)
夜着一枚隔てた空気が動いて、きり丸は目を覚ました。
たしか今夜は満月だったはずで、そのおかげで部屋の様子がうっすらと分かる。隣に敷かれていた布団はいつのまにか畳まれて、年齢相応に角ばった足が忙しなく動いていた。開けた薄目に、手甲を付けた手が脚絆の紐を結ぶのが見えた。
ああ。まただ。
と、きり丸は寝息を摸しながら嘆息する。
こうしてきり丸が寝ているときに出かけるのは、難しい忍びの仕事が入った時だ。学園からの依頼なのか、全く関係ないどこかの筋からなのか、それは知らない。
ただひとつ確かなのは、朝になれば土井の代わりに、すぐ帰る、という書置きがあるだろうということ。きり丸だって好奇心旺盛なは組の子であるから、土井が忍務に出かけるとなれば根ほり葉ほり聞き出そうとするだろう。土井はそれを分かっていて、ちょっとしたおつかいとか偵察のときは笑って頭を撫でて、支障のない範囲で教えてくれる。
きり丸に見つからないよう、こっそり出て行くのはその内容を聞かせたくない時だ。
だからきり丸も、気付かず寝ているふりをする。
あるいはこの身がもっと強ければ。
共に行きたいと、そう声に出すことも出来たというのに。
風吹けば沖つ白浪たつた山
夜半にや君がひとり越ゆらむ
(風が吹いて白浪がたつように危険なたつた山を、夜中にあなたはひとり越えてゆくのでしょうか)
「そんなに見たって、組頭はまだ帰ってこないよ」
同僚の冷やかしを、目を数回またたくことでやりすごす。洗濯ものを干し終えて、物干し台から見る景色は一番眺めがいい。
諸泉の上司は数名の部下と共に出払っていた。
お供に加えてもらえなかったことは悔しいが、実力差を思えば仕方がない。
いつも一番汚す彼の洗濯物が欠けた物干し竿は、歯が抜けたように物足りなかった。伸びをすれば、数寸高くなった分遠くまで見える気がして、つま先立ちのまま頑張っては見たがひい、ふう、みい・・・ななつまでが限界だった。
御苦労さま、茶が入ったよ、という同僚の呼びかけにいらえを返し、たらいを拾い上げる。梯子を降りる前、はためく布の間からもう一度西の山並みを見た。
君があたり見つつ居らむ
生駒山雲な隠しそ雨は降るとも
(あなたの居るあたり、生駒山を見ていましょう。だから雨が降ろうとも雲で隠さないでください)
だって貴方の周りに降る雨は、雨は雨でも血の雨だもの!
幾世経てのちの世にか忘れん
(何度生まれ変わっても忘れるものか。)
もう駄目だろうと直観していた
全身から血が失われて、もはや痛みさえ感じない
動けぬ四肢を投げ出して天を見上げた俺の視界に、お前の顔が見える
俺の最期に会いに来たか
いや、お前がこの戦場にいるはずがない
茶屋で行き会ったあの日からお前の消息はふつりと絶えて、生死すら定かでなかったのだから
今この目に映るお前は幻だろうか
そういえば月も星もない夜だのに、お前の面はつるりと白く光っている
幻でもいい
会えてよかった
ああ、そんな悲しそうな顔をするな
俺が最期に見る光なのだから
段々薄れていくお前が、口を動かしてなにか言っているか
すまんな、もう耳も聞こえないんだ
お前のひそめた眉も、小さな顎も、半月のような面の横で小さな赤い花が揺れているのも、
白く霞んで遠くなる
なあ仙蔵
また会おう。
─文次郎ッ!
散りぬべき
野辺の秋萩みがく月夜を
歓声が弾ける。六年間彼らを守る砦であり、また外出を阻む扉でもあった忍術学園の門は今や大きく開かれて、その先の空へ彼らが踏み出すのを待っていた。
この日を涙の日にしない。初めてここに集ったときと同じように、笑顔の日にしよう。それはもうずっと前から、十一人で決めていた約束だった。旅装を整えた何人かの目は昨日一晩で赤く腫れあがっていたが、それには見て見ぬふりをする。
「よく晴れたね!」
「本当にな。不運委員長の門出だってェのに珍しい」
「きりちゃんっ」
変わらないやりとりに笑い声が重なった。
「本当に、いい染物日和じゃないか、ねえ伊助」
すらりと背の伸びた庄左ヱ門が隣の小柄な友人に声をかける。
彼は家業を継いで、町で友人たちを支援するのだと言っていた。
「庄ちゃんはもう行くのだっけね」
「うん、父さんたちの顔を見たらなかなか出立できないだろうし」
「いつでも会いに来て、と言いたいところだけど…」
伊助は少し俯いた。店を弟に継がせる庄左ヱ門は、忍びとして遠くみちのくの城へ行くのだ。
庄左ヱ門はそんな伊助の肩をたたく。
「庄左、伊助っ!」
呼ばれて振り返れば、いつの間にかは組の九人が重ねた片手を中心に輪になっていた。
二人がそこに合流したと見るや、団蔵がひび割れた声をはって明るく宣言する。
「卒業しても、お互い居所を教え合おう。うちはいつでも助けになるよ」
忍びになる者、家業を続ける者、武家の跡目を継ぐ者。
これからの道はわかれて険しく、団蔵の提案は夢物語に過ぎぬことは分かっていた。
伝わる情報が真実だという証もない。
それでも彼らは頷いた。一人も欠けず十一人で過ごした日々を過去の宝物にはしない。
ここに揃った十一人を、これからの日々のよすがにしよう。
団蔵の横にはくしゃりと顔をゆがめた虎若が、虎若の横には真っ赤に目をはらした兵太夫が、兵太夫の横には一頃と変わらぬ笑顔の三治郎が、三治郎の横には眼鏡の奥が光る乱太郎が、乱太郎の横には頬に擦ったあとの残るきり丸が、きり丸の横には鼻をすするしんべヱが、しんべヱの横には目を三角にして笑う喜三太が、喜三太の横には鼻を赤くした金吾が、金吾の横には微笑む庄左ヱ門が、庄左ヱ門の横には唇を噛んで顔を上げた伊助がいる。
山桜が舞う青空の下で、彼らの思いはひとつだった。
かぎりなき雲ゐのよそにわかるとも
人を心におくらさむやは
(はてしない雲の、さらに遠くに別れても、心の中では君を置き去りになどするものか!)
さくり、さくりと雪を踏む音が近づく。雑木林は一面の雪に覆われて、寒々しい木肌をさらす何本もの細い枝が垂れこめた灰色の空へ向かって交差する。
その中にあって、青々と肉厚の葉を茂らせる一本の常緑樹はたしかに目立っていた。
雪と霜柱を踏む音は、雪帽子を被った緑の向こうの雑木の合間から聞こえてくる。
それは奇妙な一団だった。全員が笠を目深に被り、一言も交わさずにしずしずと進んでいる。
刀を履いた侍姿が四人、あとから忍び装束の者たちが二人。その間に挟まれた壺装束の女が一人。女の両手は前で一つに縛められていて、控え目ながら仕立てのいい身なりはどこぞの姫を思わせた。後ろの男が支えてやらねば今にも転んでしまいそうな危なっかしい足取りは、慣れぬ雪道のせいであろうか。
そのうち一行は例の木の下まで歩を進め、先頭の男がほう、と笠を上げて立ち止まった。よく見れば緑の葉の下には小粒の橙色が見え隠れする。白と灰色ばかりを見慣れた目には嬉しいらしく、男は何事か後ろに声をかけると持っていたつづらを降ろした。後続の男たちもその周りに集まってしばしの休憩をとるようだ。
相変わらず笠を被ったままの女は幹の傍へ寄ると、そのひこばえに手を伸ばした。白い肌に似つかわしくない、切り傷と火傷の痕が残る手であった。
一行は再び無彩色の世界へ遠ざかる。
ゆらゆらと揺れる女の黒髪もやがて木々の間に呑まれてゆく。
その足跡を辿る旅人はいつか、雪に刺されたひと枝の緑に目を奪われるだろう。
橘の小島の色は変わらじをこの浮舟ぞ行方知られぬ
(橘が茂る小島の色は変わらない、けれどこの浮舟のような身はどこへ行くのか分からないのです)
寒風と共に部屋に流れ込む土と血の匂いに長次は目を覚ました。きっちり閉められていたはずの障子は豪快に引き開けられ、闇色の床に伸びた蒼白い帯に仁王立ちの影が浮かび上がる。
「長次、ただいま」
真夜中にもかかわらず床板を打ち鳴らす勢いで部屋に入った同室の男は、障子を閉めもせず長次の布団の横にどっかと座り込んだ。その黒い体躯は熱の塊だった。熱くて速い獣の息遣いが闇を満たし、目だけが雪明りを受けてらんらんと光っている。
つんと鼻につくのは裏裏裏山の腐った泥の匂いだろうか。しかし熱と共に伝わる水水しい気配は泥と汗のためだけではないようだった。山を彷徨う人間を喰らおうとした動物の血か、あるいは。長次はその身体のそこかしこを覆っているであろう赤の中に、本人の身体から流れ出たものがなるべく少ないことを願うばかりだった。
小平太の頭を抱えるように身体を寄せると、心臓を破らんばかりの鼓動が直に伝わってきた。自分の顎の下で息づく生き物は思いのほか小さい。小平太がぼさぼさで泥だらけの髪の毛を長次の白い夜着に押し付けて、その心音を聞いているのがわかる。
しばらくして荒い呼吸は落ち着き、脈は長次のそれに歩調を合わせるようになった。長次の心臓の一拍で、小平太の身体中の血管がどくんと収縮する。
「小平太」
「ん」
「洗ってこい」
こくんと頷いて大人しく身を起こした小平太の目はもう、ぎらぎらと輝いてはいなかった。いつも通りの、黒く濡れた円らな二つの星。その目がまっすぐ長次を見ていた。
(私がいなかったら、お前はどうするつもりだ)
開いた口から漏れ出る声は隣の小平太にすら届かない。現に彼は長次の言葉を聞こうとするときの癖で、ぐっと顔を寄せてきたではないか。長次はその手をとって、冷たさに顔をしかめながら自分のそれを上に重ねた。
「長次」
赤くしもやけになっているだろう表面の下には、やはり火傷しそうに熱い血が猛り狂っている。
この雪と氷の冷たさが融けたら、じきに別れの春が来る。
長次は握った手に口づけを落とした。
思へども身をしわけねば
目に見えぬ心を君にたぐへてぞやる
(一緒に行ってやりたいとは思ってもこの身を二つに分けることはできないので、目には見えない心をあなたに付き添わせましょう)
拝啓
梅のつぼみがようやくほころび始めた今日この頃、いかがお過ごしでしょうか。
先輩のことですから、きっと北風など感じず駆け回っておられるのでしょうね。ともかく、長らくお便りも差し上げず疎遠にうち過ぎましたこと、心苦しく思っています。
先輩のご卒業から二年、この寒さが過ぎれば私もこの園を卒業いたします。
思えば不思議なものです。先輩のいなくなった学園は平和すぎて、いつ一日が終わるかと退屈に欠伸の出る思いでしたのに、今こうしてみれば鳥が羽ばたくほどの間であった気がするのですから。
そうはいっても、この二年で変わったことは沢山あります。ほら先輩、覚えておいででしょうか、よく放課後に食べに行った裏々山の柿の木を。あの柿の木は先の夏、雷が落ちてすっかり黒焦げに枯れてしまいました。
先輩が連れて行って下さった裏々々山の頂上へ続く道は、この冬に落石で塞がってしまいました。
そしていつだったか、先輩がバレーボールであけた鐘楼の穴。先日大がかりな修補が行われて、すっかり綺麗になりました。
幾本もの塹壕は、次第に落とし穴と一体になっては用具委員に埋められて、もう跡を辿ることすらできません。
もちろん変わらぬものもあります。
体育倉庫は相変わらず古くて埃だらけですし、先輩お気に入りの木も格好の昼寝場所として現役です。私と先輩がよく待ち合わせた番小屋もそのままです。時友が嵌っていた例のどぶ、あの匂いを嗅ぐと未だにあの時の騒動を思い出します。
先輩と二人で徹夜で作ったマラソンコースなんて、いまだに授業で使われています。先輩が教えてくれた木苺は毎年あの場所で実を付けます。裏門横の通り道は、ずっと私だけの秘密です。
先輩。先輩の足跡はこんなにたくさん残っているのに、きっと貴方は総てお忘れでしょう。常に前だけを見て走ってゆく方でしたから。
この手紙は卒業式の日、燃してしまおうと思います。所詮宛先も分からぬ手紙です。
けれど、もし万が一、何らかのご加護があってこの手紙が先輩に届いたなら。先輩の心の端にこの手紙の一文でもふと浮かぶのならば。
どうか、あなたを忘れることをお許しください。私もあなたを忘れて生きてゆかねばなりません。
末筆ながらご自愛をお祈り申し上げます。
敬具
平滝夜叉丸
七松小平太様
おもひやれ君が面影たつなみの
よせくるたびにぬるるたもとを
(どうか考えてください。波が寄せるたびあなたの面影を思い出し、私の袂は涙という波に濡れるのだということを)
深更。暗い廊下を人影が行く。
影は灯火も持たず、足音ひとつしない。ただその存在を知らせるのは、さらさらと耳を掠める衣擦れの音だけである。
ようやく影は立ち止ると、やはり音も立てずに襖を開け、その中へ身を滑り込ませる。室内もやはり暗闇であり、空虚なばかりの沈黙にしんと冷えていた。
やがて、中央の燭台がぼうと橙色の光を宿した。闇に慣れた目にはまぶしいほどのその小さな灯りは、先ほどの影ひとつを浮かび上がらせる、と思いきや、影はひとつではなかった。
ふたつ、みっつ、よっつ。長い影をいくつも壁に映して、灯火が揺れる。それを合図にしたかのように、次々と控えめな明かりが生まれ出る。
無人と思われた室内には、壁際はもちろん梁の上にまで、一様に黒い装束をまとった忍びたちが息を潜めていたのだ。
その中心にいるのは衣擦れの主、上質そうな寝着を纏い、ほつれひとつない髷を乗せた大柄な男である。
「お待ちどうさま」
身なりに似合わぬ子供じみた声の男は、白い歯を見せて笑う。
闇の底を照らすがごとく反射するどんぐり眼は誰あろう、七松小平太その人であった。
どかりと胡坐を組んで座り込んだ小平太の周りに、数人の忍びたちがにじり寄る。うちのひとり、髪に白いものが混じる忍びが重々しく頷いた。
「ご苦労」
小平太はそれに会釈で返す。
「なんの。窮屈な殿様暮らしにも慣れましたから」
あのぼさぼさの髪と埃だらけの顔で、学園をめぐる山野を駆け回っていたのは何年前だったろう。随分前から小平太はこの城で、若君の影武者として生きている。
そして時々こうして、忍び組の会議に顔を出すのだった。
とはいえ型どおりの定期報告を終えれば、城から出ることのない小平太の役目はそれまでである。彼は壁際に退いて、同僚たちが近隣の情勢について知りえたことを交換するのをただ眺めていた。
どちらかといえばがさつな性格である小平太ははじめ、城育ちの殿の影武者などとても勤まらぬと思った。だが武芸百般に興味があるという若君は、体格といい太い眉といい不思議なほど小平太にそっくりで、それを目にしてしまえば彼自身、その任に一番ふさわしいのは己だと認めないわけにはゆかなかった。
よそよそしい絹布団の下、かつて一人で聞いた夜の森のざわめきや、冷たい地面の匂いを懐かしく思わぬと言えば嘘になる。だが七松小平太という存在を抹消し、城と城下を往復するだけの生活はすでに苦ではなくなっていた。意思を持たぬ。忍びとはそういうものなのだ。
「そういやあ、イッポンタケの出城が壊滅した話、聞いたか」
「あそこは今川の領地に近いからなあ」
「まあ、東国の騒乱がこっちに来るのはまだ先のことだて」
「それにしてもあんなに早く落ちるとはな」
若い忍びたちは好き勝手に戦乱の世情を噂する。
内容に似合わず気楽な噂話はいつものことだが、小平太はそこに薄様のような予感を感じとった。かすかな期待と共に耳をそばだてる。
「もう少しふんばってくれるものと思うていたが」
「相手方に相当な手練れがいたと言う話だ」
「忍びか」
「おお、そうだ、またあいつが関わっていたらしいぞ」
「例の若いのだろう」
「ああ、なんと言ったっけ、ほらあのお貴族様みたいな名前の」
「見た目も派手だと聞いたぞ」
「一度手合せ願いたいものだ」
「やめとけやめとけ、お前なんぞ一撃で首掻っ切られるぞ」
「あ、言いやがったな」
満足げな息を吐き、まるで妙なる演奏を聴くように、小平太は壁に頭を預けて目を閉じた。
さざなみのように囁かれるその名は、耳管を震わせ食道を通って腑に落ちて、小平太の心に風を起こす。その風は、息を切らせて深緑の袖を掴む、愛しい後輩の前髪を揺らすあの風であった。
滝のおとはたへて久しくなりぬれど
名こそながれてなほきこへけれ
(滝は流れなくなって長く経つけれど、たとえ目に見ることは叶わなくても、その評判はいまだに私の耳に届くのです)
野となればうづらとなりて鳴き居らむ
かりにだにやは君は来ざらむ
「伊作!」
弾んだ声がして、振り返るといつものように笠を目深に被った旧友の姿があった。
学園を卒業して二年、忍びとなった彼はこうして、数か月に一度伊作の庵を訪ねて来るのだった。
主に治癒が来訪の口実なので、頻繁に来るというのは本当は好ましくないのだけど、と苦笑しながら出迎える。
「今ちょうど干してた薬草を取り入れてるところなんだ。留、今日はどうしたの?」
「いや、この前切った肘の傷の治りが遅くて」
また無理をしたんでしょ、などと言いながら板間に座らせ、湯を沸かす。
晒しを用意しようと頭上の棚に手を伸ばしたとき、背後で衣擦れにも似た金属音がした。
留三郎の忍刀が、伊作の背にぴったりと刃を沿わせている。
「留」
「伊作、聞いてくれ。主が盟約を破った」
「僕を殺せ、って?」
「違う」
ふー、と息をついて、再び刀身は鞘に納められた。
留三郎の額からは玉の汗が流れ落ちていた。
「まだだ。まだ…。」
「留さん、」
「まだ主は動かれていない。けどな、次会う時は伊作を殺しに来るかもしれない」
「うん」
「なぁ伊作、情勢が変わったんだ。逃げてくれ、俺が行けぬところに」
土瓶がしゅんしゅんと囁く音。額の汗をぬぐおうともせず、瞳に寸分も動かぬ光を宿した留三郎の形相をこっけいに見せるほどの、ありふれた日常の音。
「…ああやっぱり、留さんはやさしいなぁ」
「じゃあ」
「だって留さん、どこまで行っても僕に会いに来る前提で考えてる。
僕との約束を守ろうとしてくれてる」
伊作の声は歌うように薄暗い庵をたゆたい、その声に絡めとられて留三郎はすとん、と膝をつく。
だめだ、とかぶりを振る留三郎はしかし、どこか嬉しそうでもあった。
だってここは深草のさと、と、伊作は息だけで呟く。
( 深草の里を出て行くあなた。ここがその名の通りの荒野になったら、わたしはうずらになって待っていましょう。仮にもあなたは狩りのためにすら訪れて下さらないでしょうか。
いいえ優しいあなたのこと、きっと来て下さるに違いない )
だから僕は、いつまでも君を待つんだ
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