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 きゅっきゅっきゅ。リノリウムの床にゴム底の靴音を響かせながら、鉢屋は上機嫌で廊下を行く。目指すは鉢屋三郎心のオアシス、もとい、心療内科休憩室だ。日本ではまだ精神の病と言うものに湿っぽい特有の感傷がついて回ることに配慮したのか、心療内科は他の科とは少々離れたところにある。ただでさえ粘菌のように増改築を繰り返して作られている建物であるので、そこに行くには幾つもの階段と渡り廊下とエレベーターを経由しなければならない。だが、その手間のおかげでいつもあの部屋は静かで平和なのだ。不規則な勤務から来る運動不足も、こうして歩数を稼ぐおかげで解消されている。

何だか騒がしいような受付階を縦断し、半分外みたいな渡り廊下を渡った先にはほら、
「心療内科 医師:不破雷蔵」の看板だ。外来の受付をしていた看護師、たしか能勢と言った、が足音に眼を上げてこちらを見た。
「あ、鉢屋先生。まだ不破先生は診療中ですよ」
「だって、もう外来の診療は終わる時間だろう」
 白衣のポケットから腕時計を引っ張り出す。便所サンダルに着崩したよれよれの白衣(ちなみにその下はまだパジャマである)という格好に似つかわしくない高級品であった。
「そうですけど、今日の患者さんにはちょっと時間の掛かる人が多くて」
「また雷蔵の悪い癖か…」
「不破先生の診療は丁寧ですから」
 丁寧かつ慎重。それゆえあまり予約も取れない。患者からの評判はすこぶる上々なのに、どうしても不採算部門になりがちなのはそういうことだった。再編なんてことになれば真っ先に切られてしまうんじゃないか、特ダネを掴んでわくわくしている胸の内に、ほんの少しだけ刺が引っかかった。
「ま、いいや。待ってるから」
 そう言って彼は休憩室の扉をくぐる。

 無人を予想していた休憩室はしかし、まさかの大混雑であった。だがそこにいたのは雷蔵でも二ノ坪看護師でも無く。
「…ようさぶろー」
 陽気に手を挙げたのは竹谷である。横の久々知が、おぅ、というように唇だけをすぼめて挨拶してくる。
 人数的には二人だけなのだが、いかんせんラグビー部上がりの長身筋肉質な竹谷が足を投げ出してソファーを占領しているせいで、せまい休憩室は既にいっぱいいっぱいな印象である。
「なんでお前らが居るんだよ。特に竹谷。お前は隣だろうが」
「今日は爬虫類の日なんだよ。暇でさー」
 竹谷が院長を務めるたけや動物病院では隔週木曜日は爬虫類の日にしている。爬虫類を診る医者は少ないので、隣県からも予約が来るほど盛況である。が、竹谷は大抵助手の伊賀崎獣医師にまかせっきりにしている。
「手伝ってやればいいだろ」
「大丈夫だって。だいたい、普段犬猫の時はちっとも手伝ってくれないんだぜ?院長俺なのに」
「俺もさっきでかいオペが終わったんだ。ちょっと難産だった」
 久々知があくびしながら付け足す。

「それよりな、食堂のメニュー変わったの知ってるか?麻婆豆腐丼がメニューから消えたんだよ!なんて冷酷かつ非情な暴虐だ、そう思わないか同志」
「いつからお前の同志になったよ」
「え、だってこの前麻婆豆腐丼頼んでたじゃん」
「それはお前があまりに熱心に勧めるからだろうがっ!」
「旨い、て叫んでただろ」
「え、あ、うんそれはまあ…」
「なのに、なのに…これで食堂の豆腐メニューは小鉢の冷ややっこ65円しか無い!」
 語尾が若干震えている。
「しょうがないって、最近暑くなってきたし…」
「暑くなってきたら豆腐はいらないのか?いいや、豆腐に含まれるカリウムには体を冷やす働きがあって、まさに夏バテしやすいこの時期こそ積極的に摂取するべきなんだ!」
「いやー、でも麻婆豆腐はどう考えても暖める感じだろ」
「だからいいんじゃないか、コンビネーションは最高だ!そもそも漢方医学においてはだな…」

 拳を震わせて憤る久々知と、それを慰めるようでいて油を注ぐ竹谷。無限ループという名の暗雲が立ち込めてきたので、鉢屋は話題を強引に変えることにした。
「ところでなんか受付がうるさかったけど、なんかイベントでもやるのか」
 そこで豆腐に含まれる栄養分の詳細な解説を展開していた久々知が、一つ溜息をつく。
「ごめん、それうちの関係だ。…さっきのオペ、五つ子でさ、テレビ局が入ってるんだよ。他の患者に差し障るから断りたかったのに、院長命令で」
「それでか。院長も変なところでミーハーだよな」
「それも、レポーターに女子アナの舞田けいこが来るって聞いたら、もう引き受けろの一点張り」
「え、舞田けいこ?あの去年のミス慶欧の??まじかー、見てくる」
 腰を浮かしかけた竹谷に向かって、普段より疲れたふうな声が被さった。 「無駄だってハチ。もう出産は終わったからそろそろ引き上げただろ」
「えー、なんだ。お前はサインもらったの?」
 応えようと久々知が口を開きかけたその時、ぎいっと診療室へ続く扉が開いた。
「怪士丸、おつかれ〜って、なんでみんな居るの?!」

 丸い目を更に見開いて戸口に立ちつくしているのが、心療内科担当、不破雷蔵である。

「聞いてくれ雷蔵、重大ニュースだ」
「え、何なに?」
 背後から声が上がって、鉢屋は今さらながら後ろ頭を掻いた。そういえば最初は雷蔵だけに教えるつもりだったんだっけ。

 そこへ、「ちわーす」と言って入ってきたのは白衣だらけのこの空間に場違いなグレースーツに眼鏡だった。
「毎度どうも、ゴノイ製薬の尾浜でっす」
「あ、勘ちゃん」
八つの眼が一斉に闖入者へと向けられる。営業外回り中の尾浜勘右エ門は、その視線に居心地悪そうに身じろぎして、半笑いを浮かべた。
「…あれ、なんか集合してる?」
「いや、なんか偶然でね。ごめんね、狭くて」
 その通り、もともと三人用の休憩室は大人五人でぎゅう詰めである。気のきく二ノ坪看護師が、ちゃんと五人分のお茶を運んできてくれた。
「ありがとう」
「いえ…じゃあ、僕は能勢先輩と診療室でカルテの整理して、終わったら帰りますんで」
「うん、今日は遅くまでお疲れさま」
 明らかに定員オーバーな休憩室をちろりと見回してから、彼は出て行った。本当は不破がテーブルの縁に腰かけ、尾浜が立ったままなのを見て、一瞬診療室にあるパイプいすを持って行った方がいいのかと考えたのだが、不破が目配せをしてきたので胸をなでおろす。

「それで、ニュースって?」
「あー」
 ずずずいっとお茶を啜り、鉢屋はもう一度部屋の中を見回す。予定よりオーディエンスが増えてしまったが、まあ面白さは増すだろう。ままよ、と彼は唇の端をくいっと吊り上げて、語り始めた。

「まあ聞けよ…」




「まあ聞けよ」

 わざと音を立てて近づいたにも関わらず図々しく目をつぶり続ける立花を起こし、睨まれつつも潮江はさっきの話を聞かせた。ところが、立花はつまらなさそうに鼻を鳴らすと、
「情報が遅いな、文次郎」
 とのたまう。
「その件なら、綾部に三日ほど前に聞いたぞ」
 そうだった、彼には大学との繋がりという伏兵があるのだった。 「まあ、その時はそういった動きが水面下である、というだけだったが。そうか、探りを入れてきたか」
「知ってるんならなんでお前、そんなゆったり構えてる?もしその計画が実行されたら、実質うちの病院は潰されるんだぞ」
「いきり立つなよ。三日前の話は本当にただ掴みどころの無いものだったのさ。変に騒いだら藪蛇だろう」
 ペンを片手でいじりながら、彼が潮江の両目を見据えてくる。
「だが田村の話が本当なら、稗田のバックに誰かいる、と言うのが気になるな」
「うちみたいな弱小の大学病院を潰して得をするのは、誰だろうな」
「分からん。…だがひとつ、お前が来てから気づいたことがある」
「なんだ」

 思わず身を乗り出す、そこへペンの尻の先がとんとんと眉間に当たった。
 びっくりするほど近くに立花の、顎が細い色白の顔がある。

「最近皺増えたんじゃないか」
「は」
「どうも、相変わらず隈はむっさいし。本当に同学年か?」
「余計なお世話だ、大体皺が増えたのは、お前のとこが年末調整でワガママ言ったせいだろうが」
「歳を聞かれたら、十歳くらい上にサバ読んでくれよ。我々の世代に対する世間の心証が悪くなる」
「なっ、大体、今そういう話をしてるんじゃ」
「ほらほら、怒るとまた皺ができる」
 潮江の心労の6割くらいに責任のあるこの男は、しゃあしゃあと言い放ってもう一度ごろりとソファに横になった。振り飛ばされたスリッパが、左右ばらばらに床に落ちる。
「おい」
「休憩時間だ。休憩して何が悪い。…まあ私の方も綾部に探らせてる。気になるのなら、長次にも聞いてみるといい。最近大学に呼ばれていったとか何とか言ってたぞ」
 それきり、仙蔵は頑として目を開けなかった。




「オバケだぁ?」
 思わず素っ頓狂な声が出てしまった。いけない、と思い直してぐっと目元に力を入れると、たまたまその視線の先にいた富松師長が顔をひきつらせた。
 今話しているのは福富と山村なのだが、なんで関係ない富松が反応したのだろう。

「そうなんですよぅ、昨日の夜、3C棟の廊下を、ぺたぺたぺたって歩く足音がしたんですってー」
「で、見に行ったら、白い人影がスゥーーッと」
「でも、廊下の途中でふっと消えてしまったんだって」

 二人の准看護師が交互に、見事な連係プレーで説明した。どうやら、朝の見回りの時に子どもたちから聞いた話らしい。
「そんなの夜勤の看護師を見間違えたんだろ」
 注射の準備を手際よく進めながら、富松が口を出す。
「でもぉ、その時間には誰も3C棟の当番はしてないんです」
「じゃ、トイレに起きた子か何かだ。さ、喋ってねぇで働け働け。85号室のゆうき君、今日の午後採血だぞ!」
 と、彼は発破をかける。が、はーい、と返事をした傍から山村がカルテの束を取り落とし、福富がその上にすっころんだ。あーあーあー、と悲鳴じみた唸りを発して、富松がヘルプに入る。春に入ったばかりのこの二人は、いまいち仕事の覚えが遅い、と彼はよく食満にこぼす。が、何故か彼らが居ると、子どもが注射の時も泣かないのだ。飴を上げたりおもちゃで吊る必要が無く、それはそれで重宝している。他に仕事の方はまあ、富松が仕切ってやってくれているのでいいかな、と思う。慢性的に人手不足の我が科だが、これ以上の人員を雇う余力は無い。看護師だけではなく医師の方も、夜勤が続いてローテーションを組むのが大変なのだ。びっしり埋まったスケジュールを思い出して顰め面をしていると、何か違う風に解釈したのか、
「先生、きっとそんな噂すぐに無くなりますよ。気にしないのが一番」
 と、完璧にワクチンの準備が整ったトレイを差し出して、小児科の頼みの綱である師長はいうのだった。
 そこへ、ピーピーとか細いブザー音。
「ナースコールだ、34号室、行くぞ」

 小さくなっていくナースサンダルの足音を聞きながら、そういえば34号室は3C棟にあるんだった、と最近寝不足気味の頭で食満留三郎はぼんやりと思った。