<9> 手術室を背に消毒薬の匂いが染みついたちりひとつない廊下を10メートル。たったそれだけの距離で生検室のドアに着くはずなのだが、今そのドアからは嫌な予感しかしない。それもそのはず、めったに感情を表に出さないあの寡黙な病理医の特徴的な笑い声がここまで漏れ出てきているからで。どうやら伊作の情報は正しかったようだ。職業柄なのか何なのか、人の感情に聡いくせに無遠慮なところがある伊作なら、この近寄りがたい見えない障壁もものともせずコーヒーを届けたのだろうが、ずっと平均的な情緒を有している潮江文次郎が数秒二の足を踏んだとしても責められることはないだろう。 その時後ろからあの、と妙にかぼそい声がして、振り向いた彼の目に大柄な体を精一杯縮こませた佐武虎若の姿が映った。何やらファイルを一杯に抱えている。 「もしかして中在家先生を訪ねられるところですか」 潮江が頷くか頷かないかのうちに、その青いファイルがまるで弾丸のように差し出され、思わず出した潮江の手の中に収まった。 「お願いします!これ、中在家先生にお届けするものなんですが、さっきからずっとあの調子で、入り辛くて…!」 この臨床検査技師はその体躯の割に臆病なところがあるらしい。人好きのするつぶらな瞳を潤ませて、懇願せんばかりである。 「お願いします、今日は照星さんに資格試験の勉強を見ていただく約束になってるんです。これ以上遅れられません!!」 それでか、と妙に納得した潮江をしり目に、若いコ・メディカルはもう一度お願いします、ごめんなさいと言うだけ言って、脱兎のごとく廊下を戻っていってしまった。もちろん後に青いファイルを残して、である。 全く、勉強熱心なのも崇拝する技師に私淑するのもいいが仕事は仕事だろうが、などと口の中で呟きつつ、手の中の(押しつけられたとはいえ)責任という重みもあり潮江は腹を決めてノブを回す。果たしてそこには伊作の言っていたと同じような光景が広がっていた。 一番広いデスクの上には英字の論文やら薄いプレパラートに挟んだ標本やら報告書やらがぶちまけられ、主である中在家長次は入り口に向けた背をふるふると震わせている。その脇には見覚えのあるマグカップが置いてあるのだが、地の底を這うような例の笑い声にがたがたと振動し……いや、そんな馬鹿な。この威圧感にそう錯覚するだけだ。 潮江は恐る恐る声をかけた。 「長次?」 「ふへへへへへへへ…」 「おーい、長次、どうした」 ゆっくりとこちらを振り向いた中在家の顔には、めったに見られない般若のような笑みが広がっていて、その唇はひくひくと痙攣している。 「おい…怖ェからやめてくれ」 いっそ呆れて、といっても近寄る勇気はなく壁沿いにそろそろと移動して、部屋の隅に置かれた一人用ソファに腰掛けて長期戦を覚悟する。しかし意外にもほどなくして中在家の全身を覆っていた怒気は和らぎ、顔に笑みを張りつかせたまま口は説明の形に開いた。 「…ない」 「ない? 何が無いんだ?」 無言で中在家はデスクの上をさす。そこには雑にひかれた赤線の目立つ一枚の紙があり、どうやらそれが資料のリストであるらしい。十数個の項目が縦に列記され、項目ごと上から赤線が引いてあるのだが、うちの二点にだけひかれていない。 「っと…、成分対照表とマーカー数変化表か……いつから無いんだ?」 「この前、二社と大学に報告をあげた時は確かに揃っていた。今朝来たらこの有様だ」 「誰かがここに忍びこんで、持って行ったと言いたいのか?」 自然、声が低くなる。中在家が重々しく頷いた。再びその顔に笑みが広がりそうなのを慌てて制して、潮江は状況を整理する。 「前回この部屋に来たのは?」 「一昨日だ」 「ああ、そういやお前昨日は非番か……」 昨日の騒動が蘇り、知らず潮江はこめかみを揉んだ。その手が途中で止まり、眉間のしわがますます深くなる。 「昨日、か。病院中捜索に出払っていたんだ。小松田さんはあてにならんし…畜生、タイミング悪ィ」 「話は聞いている。狙ったように入りこまれた」 「だが、鍵は掛っていたんだろ」 「こんなもの、いくらでも方法はある」 機密資料も保管される隣の資料庫と違い、ここはあくまで作業室であり当面の保管場所に過ぎない。薄いドアには普通のシリンダー錠がひとつあるかぎりで、確かに合い鍵を作ろうと思えばた易いだろう。 だが何の目的でその二点が持ち出されたのか。疑問は疑問のまま残り、結局その午後は念のため他の資料もすべて点検することに費やされた。被害届の提出と入り口の監視カメラの分析を中在家に約束し、潮江は硬くなった腰をさすりつつ重い足取りで生検室を後にした。今日はこれから手術が一件と、他の科の手術室使用申請を捌かなければならないのだ。 翌日、仮眠室で目覚めた潮江はコーヒーを求めて1階へ降りて行った。休憩室の豆は昨日のうちに切れてしまっている。時刻は朝の7時。夜勤の看護師たちが早起きの患者たちに付き添っている以外、開店前の売店とその横の自販機コーナーに人影はほとんどない。なかば機械的に砂糖なし、濃いめのコーヒーのボタンを押し、できあがりを待っているところに早出の善法寺医師がやってきた。 「おはよう、文次郎」 「おう」 「そういえば滝夜叉丸だけどね、一昨日例の件で炎天下歩き回っただろ、具合が悪そうにしてたから昨日は休ませたんだ。全く、小平太も困ったものだよね。自分が体力馬鹿だからって他人も同じだと思ってるんだから。そりゃあれだけ日頃ぼろぼろに働いてたら熱中症にもなるよ。昨日は忙しくて言いそびれたけど、今日は滝夜叉丸が来る前にちゃんと一言言っておかなきゃ」 朝からよく喋る同僚の言葉をぼんやりと聞き流す。それが常であるから別に善法寺は気にも留めない。二人の後ろでは8時の開店に向けて、今日もきり丸が売店の準備を始めている。であるから、急にそのきり丸に声を掛けられたとき、潮江は少なからず驚いた。 「どうした」 「これ、並べないほうがいいと思いますか」 険しい顔で見せられたのはよく見かける週刊誌。だが今日の日付の発売日の下、黄色で書かれた見出しに目が引きつけられた。 「O大学病院の深い闇、醜聞にまみれた医師たち? なんだこれは……」 「並べなよ」 彼にしては珍しい硬質な声に善法寺を見れば、動揺の欠片も見られない引き締まった顔をしていた。出勤の途中でこれを知ったのだろうか。 「根も葉もないことだらけだ。うちの患者さんなら分かってくれる。隠すことはないよ」 「そうっすよね。わかりました。いつも通り並べておきます」 きり丸が大きく頷いて、カウンターに戻ろうとする。あわててその背を呼びとめて、寝耳に水の潮江はその週刊誌を一部買い求めた。善法寺に教えられたページを開いた途端、そこに踊る文字に苦虫を百匹ほど噛み潰した顔になる。あまりのことに、善法寺に呼び止められるまでコーヒーのこともすっかり忘れていたほどだ。 循環器科の廊下を歩きながら田村を呼べば、やはり夜勤明けの彼がどこからともなくひょっこりと現れた。挨拶しようとするのを遮って、手にした週刊誌を見せる。 「田村、各科に伝えろ。全員粛々と業務を行い、質問を受けても自分の判断では答えるなと。9時から臨時の医師会を開く。4階の第一会議室だ」 紙面の衝撃に口をぽかんと開けていた田村はようよう一礼をして、伝令のため早歩きで去っていく。どうやら今日も、何事もなく無事にとは行かぬらしい。 9時5分。 鉢谷が最後に席に着き、大川大学病院臨時医師会が始まった。といっても例の如く、教授陣不在のため揃うのは助教授以下だけなのだが。コの字型の机を囲んだ医師たちは一様に険しい顔をしている。議題を伝えていないにも関わらず、何らかの形で例の週刊誌はすでに読んでいるらしい。 ただ会議自体は気心の知れた仲、堅苦しさは微塵もない。 「循環器科助教授の恫喝と専制の院内支配、ねえ…。僕は暴力団からの資金提供で、留さんは患者の母とただれた関係、か」 「よかったな留三郎、小児性愛者とは書かれてないぞ」 「は、文次郎、お前こそその程度でよかったじゃねェか」 もはやお約束のようになった険悪な空気を雨粒ほどにも感じず、七松が割って入る。 「まあ、反論できないのは私ばかりだな! よく調べてあるよ実際」 「……過ぎた過去を引き合いに、今のお前の資格を論じるのはおかしい」 ぼそりと呟かれた言葉に、七松は明るい笑みを零し小声で礼を言う。 「長次のことは出ていないな」 「ほとんど表に出ないからな。久々知についても書くことは無かったんだろう」 「私と雷蔵については何と?」 睡そうな目を赤く腫らした鉢谷が聞いた。 「……不破が二重人格というのは、お前とごっちゃにされてるぞ絶対」 「それは光栄だなあ」 「こんなときに馬鹿言うなよ三郎」 と、一通り所感を話し合ったところで真面目な議題に移る。こちらには非がないのだから深刻になりすぎることはない。 ともかく会議はその後マスコミへの対応と患者のフォローに話が及び、週刊誌の発売元と筆者とされる「達魔鬼」に名誉棄損の抗議を入れる、という話に落ち着いた。当面の対策はそのようなところだろう。看護師へは各科で伝え、コ・メディカルたちへは善法寺が伝達を行うこととなった。とにかく職員の動揺を抑えることが先決だ。 潮江が循環器科に戻ると、加藤や任暁が待ちかねたように視線を向けた。その顔には不安と、不謹慎ながら抑えられぬ好奇心が見てとれる。 「……、以上が決まったことだ。とにかくいつも通り仕事をしろ、いいな」 「はい。あの、これはやっぱり稗田教授の根回しなんでしょうか」 空気が凍った。田村があわあわと潮江と発言した任暁を見比べる。 「佐吉、どうしてお前がそれを知ってる」 「あ、ええと、あの、団蔵から」 「団蔵!」 「ちょ、俺は鉢谷先生から聞いただけですってば。これって秘密なんですか」 朝からの一連の出来事で、ついに潮江は頭痛がしてくるようだった。鉢谷に例の話が伝わった経緯を彼は知らないが、は組に伝わったということはつまり、もう病院中がそれを知っているということだ。今朝の雰囲気からしてさすがに患者のほうにまでは伝わっていないようだが、改めて緘口令を敷いておかねばそれも時間の問題だろう。 田村以下目があってしまった職員たちが戦くのも知らず、潮江は虚空に浮かぶ便所サンダルと白衣を力いっぱい睨みつけたのだった。 その日の午後は二件の手術に加え予想外の事態への対応もあり、まさしく荒波のようだった。いや、荒波を感じているのは潮江だけではなかった。この大川大学病院は今や大海に浮かぶ一隻の小船なのだ。昨日までの不穏な空がついに牙を剥き、雨中の船は大きな横波を受けて右へ左へと大きく揺れている。それでも、ノアの箱舟の如く職員たちの生活と地域の医療を積んだこの船は、決してここで沈むわけにはゆかないのだ。 夕刻循環器科の自室に戻ると、暗い室内に小さな赤い光があった。机に置いていた携帯の着信通知だ。プライベート用のそれを開けば不在通知が5件。うち3件は「発信者:立花仙蔵」とあった。すこしためらったのち、光る画面を操作してその最後の一件を選択する。発信ボタンに触れたところで控え目なノックの音が響いた。 携帯を閉じ、短くいらえを返す。すぐに同じくらい遠慮がちなノブを回す音に続いて半分ほどドアが開き、意外なことに田村ではなく外科助手の平滝夜叉丸が顔を覗かせた。いまだ電気も点いていない室内に形の良い眉根が寄せられる。 「おやすみでしたか。失礼しました」 「いや、いいんだ。何か用か」 携帯を胸ポケットにしまい、入ってこようとしない平に代わって自らドアに近づいていく。その薄暗さでもそれとわかるほど平の顔は蒼く血の気が引いている。 「まだ具合が悪いんだったら……」 「いいえ大丈夫です。そうじゃないんです」 勢いよく首を振るので、長めの髪がその顔のまわりをばらばらと踊る。 「あの、例の週刊誌のことで」 「ああ……?」 「……っ、申し訳ありません!」 いきなり深々と頭を下げた平らに、潮江は目を白黒させた。理由を聞こうと促す前に、平は自分から堰を切ったように話しだす。 「一昨日、例の患者を捜索中のことです。喜八郎を探そうと大学に行ったのですが、そこで記者を名乗る男に話しかけられたんです。もちろん最初は取材なら直接病院のほうに申し込んでくれと言ったのですが、正式の取材ではなくあくまで予備調査だからとしつこくて、私もとにかく座りたかったのでつい同行を……。そのまま30分ほど構内の喫茶店で話をしました。ですが誓って私はあんなことは言っておりません。ただ、私の話を曲解したり断片を繋げればあの記事の元の元くらいにはなったのかもしれません」 そのまま土下座までしそうな平を何とか押しとどめる。確かに調子に乗って喋りすぎるきらいのある平だが、いくら何でもあのようなことを言うとは誰も思わない。大体冷静に考えてみれば。 「一昨日話したことが今朝の発売に間に合うわけがないだろ。少なくとも今回の記事は情報源はお前じゃない」 どちらかといえば不得意であるにも関わらず蒼白の平をひたすら宥めすかして、ようやく彼が落ち着いた頃には潮江の方が疲れきってしまった。ひとつ思い付いて、すっかり小さくなった平の背中を呼びとめる。 「なあ、小平太とちゃんと話したか」 「え」 「お前のことだから、また忙しさに流されてなあなあにしてるだろ。無理だと思ったらちゃんとあいつに言うようにしろ。あいつも悪いが基本は自己管理だ」 「はい…」 「まあ、そうしょげるな」 ぽんぽんとその頭をたたく。 「伊作は後輩に甘いから、俺が代わりに言ったまでだ。それより小平太が伊作に説教されて相当しょげてたぞ。あとで会いに行ってやってくれないか」 とまどいを含んだ視線に見つめられて、自然と潮江は苦笑した。 「俺たちが言うより、お前から直接言わんと元気が出ないらしいからな、あいつは」 ほんのわずか明るくなった表情の平が去ってふたたびドアを閉めれば、夕刻のおぼつかなさに代わってカーテン越しの街の明かりが部屋を青く浸した。ひじ掛け椅子に座り、今度こそ発信ボタンを押した。耳慣れたコール音がきっちり3回。 「はい立花……、なんだ文次郎か」 いつも通りの言いようだが、さすがに疲れの滲む声だ。 「今日学会に出たらやたら視線を感じてな。なにかと思ったらあの記事だ。どうなってるんだ全く」 「ああ」 「病院のほうはどうなってる」 「朝から電話が鳴り通しだが、みんなよくやってくれてる。患者にも目立った動揺は無い」 「そうか」 合間に聞こえたため息を潮江は聞き逃さなかった。いつもなら聞かなかったふりをしてやるところだが、潮江が勤務中なのを知っていて3回もかかってきた電話、その背後にあるものを考えるなら、今日ばかりは踏み込むことも必要だろう。 「なあ、書かれたこと気にしてんのか」 「馬鹿言え」 「声が震えてる」 一瞬の沈黙。潮江には電話の向こうの立花の、目線をそらす仕草まで容易に想像できた。 「はっ、冷酷非道な人体実験で名を成した、だと。酷い言われようだ」 「自分は微塵もそんな風には思ってないんだろう」 「当たり前だ。当時あの症例は治療法が解明されていなかったんだ。もう開頭手術以外手の打ちようが無くて、斜堂先生と私は最善を尽くした。だが患者は救えなかった。ただ術式の記録から発見があって、それが医学上有益と思われたから発表した。それだけのことだ」 「おかげで治療法が確立されたんだろ、医学じゃよくある話だ。医療関係者なら誰も人体実験だなんて思わない」 「分かってる!」 「じゃあまだ引きずってるのか、あの子を救えなかったこと」 「うるさい黙れ」 あの澄ました立花仙蔵がこんな風に子供っぽく怒るなど、後輩たちは知るべくもないだろう。案外分かりやすいくせにプライドが高いのだから手に負えない。 「明日の何時の便だ」 「3時に羽田に着く」 「そうか……。なあ、なに言われたか知らないが、気にすんな。あと早く帰ってこい」 「迎えにも来れないやつがどの口で言う」 「はは、悪かったな」 それから二、三やりとりをして電話を切った。携帯の画面を閉じればその分暗く沈みこんだ手元から、夜の帳が部屋全体に染み出してゆく。空調の風でカーテンが揺れて、机の上の小物の影もゆらりと揺れた。睡魔に呑まれんとしながら、まるで海の中にいるみたいだ、と思った。 さてその海の底、イルミネーションがゆらめく夜の繁華街。喧騒の中、勤務を終えた中在家長次と七松小平太が並んで歩行者天国を歩いていた。夕飯はラーメンと決めて、どのそこの店は出汁がいだの焼豚が旨いだのと言いあっている。その時七松の肩を軽く叩くものがあり、彼は足を止めて振り向いた。と、その顔が凍りつく。 「久しぶりだな七松」 |