<8> 「…何だね、君は」 稗田は、教授の威厳と言う態度を前面に押し出しながら、綾部を下から睨みつけた。 「…ちょっと、忘れ物を探してまして」 あまり口が達者でない方の綾部にしてはましな言い訳が口から付いて出た。とはいっても、別に鍵穴に耳をくっつけていたのを見られたわけでもなく、ただ立っていただけなのだからそんなに威圧的に責められるいわれは無い、などと彼の一種の癖であるへそ曲がりの思考が脳内で胡坐を掻いている。特に悪びれる様子も愛想をとる様子もない綾部の相変わらずの無表情に、この教授殿はいささかむっと来たらしい。権謀術数を駆使して学内で大川に次ぐ第二の影響力を築き上げてきた稗田は、自分の研究室内ではまるで皇帝か何かのように自分を扱わせていることでも有名だった。 「お前はウチの学生じゃないだろう、何でこんな所をうろうろしている」 「私は違いますが、忘れ物は友人の代わりに探してるんです。」 「友人?一体忘れ物は何なんだね」 「…確か、プレゼンの資料が入ったファイルとか言ってましたが」 「なら彼の思い違いだろう。この中にはそれらしいファイルなど無かった。他を探せ、他を」 面倒くさそうにそう言いながら、稗田は手にした鍵束で資料室の鍵を閉めてしまう。 「本当ですか、教授。何かにまぎれてると言うこともあるので、確認させてくれませんか」 「無い無い。私が言っているのが信じられないのか、お前は」 「そういうわけではありませんが。一応…」 「無かったと言ってるだろう!」 突然に稗田が声を荒げた。並みの院生なら、その迫力と、そして彼の不評を買うことへの不利益を恐れて即座に頭を下げただろうが、そこは変人綾部であった。稗田の怒号を柳に春風の如くに吹き流して、一歩前に出た綾部のぎょろ目が稗田の顔を覗き込む。 「承知ですが、そこをなんとか」 「駄目だ駄目だ!まず他の部屋を探したまえ」 いらついて鍵束を威圧的にジャラジャラ鳴らす稗田の様子に、綾部がとうとう引き下がったのは、剣幕に押されたからではなくこれ以上押し切るのは得策ではないと判断したからだ。ここで変に顔を覚えられては、立花のために動き回りづらくなる。 「そうですか、失礼しました」 ほんのちょっと、公園のハトほどにも意味の無い頭の下げ方をして、彼はさっさとその場を歩き去った。残されたのは、無礼な態度に怒ると言うよりむしろあっけにとられた稗田のみ。先ほど綾部の鼻歌を吸い取ったチンパンジーの剥製が、ガラスの目玉を回して密やかに笑った。 病院では、今度は田村が頭を下げていた。それはもう、深々と。 「申し訳ありません、私どもの不注意です」 相手は南野園の家族だ。明日の手術に備えて近くのホテルに泊っていたところを、万が一の場合に備えた連絡が入ったのだ。しかし、謝られている方の妻、そしてまだ大学生らしき長男は、憤慨するどころか逆に恐縮していた。 「そんな…うちの主人がご迷惑をおかけして…あの人、普段はいつも真面目で、黙っていなくなったりなんて絶対しない人だったんです。なんで急に病院を抜け出したりしたのか…」 「いえ、お預かりした患者さんは私どもの方で責任を持つことになっていますから。重大な手術の前で患者さんが落ち込んだり興奮したりするのはよくあることでして、担当看護師が、いえ、私がもう少し気をつけておくべきでした」 もう一度頭を下げる田村に慌てて倣ったのは、加藤だった。普段はガテン系にも間違われる日に焼けたしっかりした体格が、随分と縮んでいる。悄然と肩を下げる彼は、捜索隊をかき集めた後、共に病院に残るよう田村に申し渡されたのだった。もし南野園が救急にかつぎ込まれるようなことがあったら、今までの担当看護師の彼がスタッフとして最適だろうと思われたからだ。失態を侵してもまだ同じ患者に就かせてもらえることに安堵をおぼえる半面、周囲が駆けずり回る中、責任の一端を担う自分が病院で連絡を待つだけと言うのは、なんとも肩身が狭い思いだった。 「とにかく、今は病院中のスタッフ総出で探しています。何か南野園さんの行かれた場所に心当たりはありませんか?」 「それが全く…。自宅には帰ってませんし、親しい知り合いの方の所にも来てないそうです。…でも、遠くには行けていないと思います。盗難にあったらいけないから、といってお金を小銭入れくらいしか持ってきていないんです。だから、もしかすると何かあって帰れないのかもしれません。」 奥さんの声音は、心配と焦燥で、今にも消え入りそうであった。 そこへ、田村の胸が振動した。携帯の画面に出た発信者を確かめるが早いか「失礼」とその場を離れた彼は、声の聞こえない範囲まで走り出て着信ボタンを押す。 「先輩!」 「田村、渋滞に捉まった。どうやら祭りがあるらしくて、交通規制だ。あと二時間はかかる。そっちはどうなってる?」 簡潔に用件だけ伝えた潮江の声は、緊迫していたが同時に落ちついていて、田村の背筋をしゃん、と打った。 田村も、捜索隊が組織されたこと、家族に連絡を入れたこと、救急の受け入れ姿勢を整えていることなどを出来るだけ順序立てて報告する。 「そうか。利吉さんが話したいと言っている。代るぞ」 利吉が同乗しているタクシーの車内から掛けてきたこと、また隠しごとを嫌う潮江の性格からいって、この件が利吉に伝わっているのは覚悟していたが、それでも田村の膝は微かに震えた。ややあって、利吉の静かな、きっぱりとした声が流れてくる。 「もしもし、三木エ門君?」 「はい、もしもし」 「話は聞いたよ。大変だね」と、彼はまず患者の体調の心配か、それとも田村の境遇への同情か、どちらともつかない言葉を口にした。 「こんなことになってしまって…申し訳ないです、利吉さん」 「いや、それについては君を責める気は無いよ。患者だって大人だからね、一種の自己責任だろう。だけど、脱走したということは、手術に完全には同意していないということかい」 「それはなんとも…同意書は頂いてますし、リスクの説明も理解してもらえました」 「そうか。潮江君とも話したんだけどね、分かっていてほしいのは、ただでさえバチスタはリスクの高い手術だ。成功率は患者の、生きる力と言うか精神力にも負うところがある。もし、患者が100パーセントその気じゃないのなら、執刀はできない」 「…はい」 「それと、手術するからには万全のコンディションが必要だ。そのためには、術前のカンファレンスが大事だし、それには充分に時間をかけなくちゃいかない。明日手術をするには、どうしても今日カンファレンスだ。だから、タイムリミットは二時半、いいね。それまでに患者が見つからなかったら、君たちには悪いけれど、執刀は引き受けられない」 すまなそうに、だが断固として言う利吉に対して、田村は条件を呑む以外にない。 通話を終えた携帯の液晶に、11:27の表示が冷然と光っていた。 あと三時間。だが、病院で待機する以上、捜索に走って行ったメンバーの働きに懸けて待つしかなかった。戻ってみると、すでに加藤が家族をとりあえず待ち合い室に案内して行った後で誰も残っていない。そこへ、胸ポケットがもう一度震える。 『信頼している、頑張れ』 潮江からのメール着信。 田村は右手に携帯を握りしめたまま、深く深く息を吸った。 12:40 「団蔵、んな落ち込むなって」 ここは病院に戻って待ち合い室。居ても立ってもいられないと正面玄関前で待ち受けながらしょんぼりとうなだれる団蔵を、きり丸がなぐさめていた。 「しょうがないよ、他の患者だっているんだし、そんな四六時中見てることなんかできねぇって」 「だけど、もしなんかあったら…」 「まだなんかあるって決まったわけじゃねえだろ?」 団蔵はそうだけど、と小さく呟いたまま答えない。田村は任暁を連れて他の患者の診察に行き、何かあったらすぐに呼び出せと言い残して今はどこにいるか知れない。その呼び出すための黒い携帯を握りしめて、団蔵は溜息をつくのだった。そんな団蔵を、患者の家族が時折暗い顔でちらちら見ている。正面玄関を通ってくる外来の患者や見舞いの人も、深刻な表情でたたずむ看護師に対して何事かといった表情を向けてくるのだった。 「ったく、覇気がねえなあ。お前がおろおろしてたら、家族の人ももっと心配になるだろ。きっとすぐオッサンは見つかるし、手術も予定通りできる。な?」 きり丸はそういうしかなかった。そろそろ彼自身の休憩時間も終わるのだ、そうしたらまた裏に戻って診療点数の処理をしなければいけない。なんだかこの騒ぎで病院中に落ちつかない嫌な空気が漂っているのがびんびんと身にしみるが、仕事は仕事だ。それも時給換算だ。 「元気出せよ、団蔵」 1:43 あと残すところ一時間を切った、この時事態は急激に動いた。 「団蔵!」 他の患者が大勢待っているにも関わらず、任暁左吉が大声を出して駆け寄ってきた。最も、怒鳴った瞬間に周りの状況に気がついて、赤面したようだったが。色白のせいで頬の赤みが目だって見える彼は、何事かと振り返った団蔵の傍まで来ると、息を切らしながら強い調子でせっついてきた。 「馬鹿、何やってんだこんなとこで。早く救急の受け入れへ来い」 「え、見つかった?」 「なんだ、聞いてないのか?なんだかよく知らないけど、今搬送中らしい」 「…え、って発作?!ど、どうしよう…」 「いいから早く行け、お前がいなきゃ誰が担当するんだッ」 「お、おう!」 雷に打たれたように、団蔵はサンダルの音高く走り去って行く。本当は病院内で走るのは禁止されているのだが、この際誰も咎める者などいなかった。白衣の背中が小さくなっていくのを、外来受付のカウンターに座っていたきり丸が心配そうに見送っていた。 五分ほど前。 富松作兵衛は住宅街を足早に歩きつつ、先ほどから何度も携帯のリダイヤルボタンを押していた。携帯電話という文明の利器は人を探すのに絶大な威力を発揮するはずである。だが、あの迷子二人に関しては何故かほとんど役に立たない。大抵は三分四分とむなしくコール音を聞くか、あの腹立たしいくらいに落ちつき払った例の「おかけになった電話番号は、電源が入っていないか、電波の届かないところにあるため、かかりません」という録音メッセージだ。 今日は、何度掛けてもどちらに掛けても後者であった。しばらく待った後で、もはや耳馴染みになってしまった女性の声が「おか」を言った瞬間に富松はもう一つのボタンを押し、盛大に舌打ちをする。 「電波の届かない場所ってどこだよ、ここは21世紀の日本だぞ、どこに行けば電波無くなるんだバカヤロウ」 地下鉄に乗って広大なるアンダーグラウンドワンダーランドに旅立ってしまった、という恐ろしい可能性には気がつかないふりをして彼はそう愚痴る。もしそんなことになってしまっていたら、富松でさえまず見つけるのは不可能だし、あの二人だけでは自力で明日までに戻ってこられまい。藤内の奴、面倒くせえことをしてくれやがって、と唸る藤内は白衣の天使どころかちょっとしたチンピラ並みのガラの悪さである。 住宅街をひたすら歩きまわっている彼だが、あては無い。あの二人の行動パターンはでたらめすぎて、数打ちゃ当たるの論理であちこち行ってみる以外に、探す方法が無いのだ。炎天下、足を棒にしなければならない富松の機嫌はふつふつと湧き始めている。 がしかし、もうほっといて帰ってやろうか思った瞬間に握ったままだった携帯が震えた。発信者は次屋である。音速で着信ボタンを押した。 『あー、さくべ?何か用?』 実に暢気な声であった。 「何じゃねぇぇぇぇぇ!!どこに居るんだお前、ただでさえ病院内が患者の捜索でひっくり返ってるときに、お前らまで探してる余裕はねえんだって」 『あー、そのことか。南野園、だっけ?その人なら今一緒に居るから』 「は」 富松の思考が止まった。思考だけでなく、足も呼吸も、むしろ生命活動そのものが一時的に止まった。 「…え、今一緒に居るって…」 『うん、病院向かってっから』 「おおおお前、まさか南野園さんを案内してるんじゃないだろうな、一生病院着かねえぞ」 『いや、救急車呼ぼうかと思ったけど』 「まずいのか?!」 最悪の二文字が頭の中で点滅し始める。ああ、もし発作が起きて容体が急変して搬送が間に合わなかったら。 『そこまででも無かった。応急したら意識回復したし』 幸いなことに、次屋の落ちついた口調が富松の頭の点滅を消してくれた。いやだが待てよ、応急したって、発作起こしてるんじゃないか。 「…連絡、連絡は?病院には言ったのか」 『や、まだだけど、え、何そんな大事なんの。ただのオッサンだけど』 「そのオッサンを今病院中のスタッフが探し回ってんだよッ」 大声を出すのは大人げないと分かりつつも、声を荒げずには居られなかった。どうやら藤内からは事態の重大さを説明されていなかったらしい。しかも、発作を起こしてしまっているのだ、小康状態とはいえ。軽いパニックが戻ってくる。 『えーわかった、や、よく分かんねえけど、とりあえずこのままパトカーで救急搬入するから、準備よろしくな。あ、ちなみに左門が後で隠し子連れてくるから』 「は?え?」 『それがさあ、』 ブチッ、ツーツーツー。 電波が届かなくなったらしい。もう一度掛けなおすが、応えてくれるのは例の「おかけになった嬢」だけだ。 なんでパトカーで隠し子なのか。最後の台詞が意味不明すぎて混乱する富松であったが、とにかく患者が見つかったこと、病院に向かっていることだけは分かった。病院に一報を入れようとしたところで、今度は神崎から着信があった。 「左門ッ!」 「もしもし?あのな、今な、頼まれてた人の隠し子ってゆー女の子と一緒なんだが、これから病院行くぞ。じゃ」 「待て待て待てィ!お前、ぜんっぜん意味わかんねえ」 通話を開始した途端にまくしたてたかと思えば、一方的に切ろうとした神崎を辛うじて間に合って押しとどめ、富松はわめいた。 「だからさ、あの人は隠し子に会うために病院抜け出したんだって。で、途中で倒れちまって、そこをオレらが見つけて、三之助が病院連れてって、で、オレが代りに連れてくるからって約束して迎えに行ってたんだよ」 「…はあ、何か頭がぐらぐらしてきた」 「寝不足はいけないぞ」 「てめえらのせいだコンニャロー。…てことは今、その子と一緒にいるんだな」 「ああ、家に行ったらばあちゃんは腰が痛くて動けないんだと」 「道わかるのか」 「道?分かるだろ。とりあえずまっすぐ」 「…分かってねえよなあ、そうだよなあ…ああもう」 多分、ここが住宅街の真ん中で無かったら、富松はその場に突っ伏していただろう。だが、人の目もあることなので、電柱にもたれるだけで何とか湧き上がる脱力感をやり過ごした。 「いいか、動くんじゃないぞ。周りを良く見ろ、何が見える?」 「えー、と公園?と自転車置き場と、あと、○○マート」 「○○マートだな?いいな、絶対にその場から動くなよ、お前だけじゃなくその女の子が今晩家に帰れるかも掛かってるんだからな。そうだ、公園にでも行ってアイス買って座ってろ、動くなよ」 神崎はどこか不服そうであったが、富松の気迫が電話越しに伝わったのだろう、結局は座って待つことに同意した。 「待ってろよォォ、絶対見つけてやるからな!!」 富松の(声には出さなかったが)雄たけびが天を揺るがしたのであった。 2:10 正面入り口のグラスのドアをほとんど押し破るようにして入ってきたのは、潮江文次郎医師と山田利吉であった。任暁が立って迎える。 「すまん、思ったより交通規制がひどくて遅れた。例の患者は?」 「10分ほど前、救急へ搬入されて今は様子見です。軽い発作を起こしていたようなのですが、幸い救急隊員に発見されまして、応急手当がよかったので今の状態は安定してます」 「そうか…よかった」 「はい。あ、田村先生は記者会見の準備で、担当医は一時的に七松先生になってます」 「担当看護師は」 「加藤のままです」 「分かった。それが一番だろう、よくやってくれた」 「いえ、私はただの連絡係で…」 言葉を交わしながら足早に移動すると、すぐに一行は救急センターへ着いた。祭りで盛り上がった勢いでどうやら喧嘩でもあったのか救急は随分と混み合っており、その中で大柄の七松が頭一つ飛びぬけて飛び回っている。平均体型の潮江や山田、背の低い任暁などは埋もれてしまいそうであったが、背の高いせいか七松は目ざとく見つけだして大股で飛ぶように近寄ってきた。 「よう」 「小平太、南野園さんは?」 「ここはうるさいからな、循環器科に移したよ。はい、カルテ。でも、容体は落ち着いてる。明日の手術も大丈夫だと思う。ま、私が判断する事じゃないけどな!」 それから、彼はひょいと悪戯っぽく唇の端をめくり上げて囁いた。 「あ、でも今行かない方がいいかも。隠し子が居たとかで、今もめてるんじゃないかなー」 あんなに枯れて見えて、結構サカンらしい、と七松は呵呵と大口を開けて笑い、また別の搬入者の方へすっとんで行った。 「相変わらず、凄いなここは」 「市内に救急センターはうちともう一か所しか無いんですよ。何かあるともういっぱいいっぱいで。」 救急を後にしながら、潮江はそういえば今日は珍しいことに平の姿を見ないとぼんやり思った。 循環器科の個室の前で、きちんと直立不動で田村が待っていた。 「先輩!と、利吉先生」 少し疲れたように見える田村の顔面に一瞬ぱあっと喜色が広がり、だが同じくらいの早業でそれは消え去る。すみませんでした、と謝り始めるのを止めて、潮江はまず患者の様子を聞いた。 「はい、容体は安定しています。心電図に若干の不整脈は見られるものの、ベースラインから大きな違いはありません。それと利吉先生、こちら、記者会見の資料です。先生が交通規制で遅れると言うことでしたので、今回は型通りの形式で済ませました。術後の会見で質問を受けていただくことになりそうです」 「分かった。用意しておくよ」 「それで田村、患者の失踪のことは」 「患者を探していることは漏れていましたが、それが南野園さんであることは知れてなかったようです。探すときに個人名は出さないように指示してましたから」 「そうか、ならよかった」 肺の奥底から息を吐き出して、潮江が嘆息した。潮江にとって、田村にとって、加藤にとって、そして捜索に携わった全てのスタッフにとっての長い、長い一日がようやく終わろうとしていた。 結局。 カンファレンスは予定通り行われ、翌日の手術は成功した。田村が詳しく説明したところによると、南野園は八年前、飲み屋の女将と不倫をして出来た隠し子がいたそうで、リスクの高い手術の前に会いたいと思ったものの、秘密にしてきたので家族に頼むわけにもいかず、結局一人で抜けだしてしまった、ということだったそうだ。 「はあ、ハタ迷惑な」 「まったくです」 全てが終わった後で、コーヒーを啜りながら潮江と田村は鏡のようにそっくりな顰め面を作った。 「それで、神崎と次屋が偶然通りかかったんだな」 「そうみたいです。その女の子の家まであと少し、と言うところで不整脈が出たらしくて。あの二人が来たから良いものの、もし手当てが遅れていたらと思うとぞっとします」 「で、なんでパトカーで搬入なんだ」 「あの日は祭りでどこも混んでましたから、たまたま交通整理をしていたお巡りさんが近くに居て、それで乗せてくれることになったらしいです。智吉さんとか言ってました。パトカーなら、交通規制の区間も通れますし」 「ああ、それは上手くやったな。ったく、一般車だとひどい渋滞だった」 「しょうがないですよ、特に今年は異例の盛り上がりだったみたいですし。で、次屋が南野園さんについて、神崎はその子を迎えにいったんです。不倫相手だった女将は、その子が生まれてすぐ亡くなっていて、その子は女将の母親の家で育てられていたそうなんです。事情を話して神崎が連れ出して、でまあ子どもの方も五歳くらいでしたから」 「迷った、と」 長く暖め過ぎたか、コーヒーがやけに苦い。 「まあ未遂ですか、富松が回収してましたから」 あの後、南野園発見の報で探しに出ていたスタッフが全員病院に残るなか、探す対象が違った富松だけは戻れず歩き回っていたらしい。カギは、何度目かの通話の際に背景に混ざった神輿のかけ声だったとか。神輿のルートを逆に辿り、ついに富松は二人組を見つけて病院へ連れて帰ってきた。まさかの隠し子出現にある程度のドラマはあったものの、ふたを開けてみれば女の子が欲しかった南野園の奥さんはすっかりその子のことが気にいってしまい、また母親がすでに死去していることもあって、高齢になっていた祖母の代りに女の子を引き取る話がトントン拍子に運んだ。目覚めた南野園にとっては、四方まるく収まったのである。 「あ、文次郎に三木ヱ門。おつかれー」 休憩室の扉を開けて入ってきたのは善法寺であった。 「ここのところ、なんか大変だったんだって?僕は僕で忙しかったから手伝えなかったけど」 「いや、大丈夫、なんとかなった。そっちも面倒なこと抱えていたらしいな」 「うーん、まあ一時はどうなるかと思ったけどね、お金も帰ってきたし、あのタソガレ組の患者さんも指を詰めずに済んで、本日退院」 話しながら、善法寺が自分用にインスタントコーヒーを入れた。山もり一杯のクリープがさらさらと溶けて行く。 「その話だが、どうやって金を返させたんだ?うちの加藤が皆本から聞いてきたが、意外とお前が怖いって評判になってるぞ」 「えー、いや、あの教祖の持ってる心臓病ってのが、神経性のでね。自分の心臓病も治せないってことを公表しますよって言ったら意外と素直だった。雷蔵のとこを紹介しといたけど、どうかなあ、心臓の痛みは神経性で本当はどこも悪くないって本人が気がつかないと治らないから」 「心臓神経症か」 「うん、それ。念のために検査もしたんだけどね、やっぱり神経症みたい」 コーヒーを一口飲んで、伸びをする。内科だけでなく救急も手伝うことのある彼が、実はかなり疲れていること、それを表に出そうとしないことは潮江はよく知っていた。そういえば、善法寺が自分用だけでなくもう一つ甘めのコーヒーを作っていることに気がつく。 「あ、これ?長次に持っていこうと思って。なんか生検室に籠って何かやってるんだ。珍しくすごい怒ってるみたいけど、どうしたんだろう」 「本当か」 「聞いてもあんまり教えてくれないんだけど、この前の治験の資料をね、こうバーっと机に引っくり返して」 そうして、本当にバーっとその様子をジェスチャーしてくれたので、右手に持ったままだったコーヒーが跳ねて白衣にかかった。 「あー、また染みが…」 染みができるたびに強力な塩素で漂白されている善法寺の白衣は、真っ白な割に生地が傷んでどことなくみすぼらしい感じになってしまっている。 「はあ、また洗濯かな。とりあえず、根を詰めるのは良くないからね、長次にコーヒーを届けたら僕は帰るけど、文次郎も帰り際に声かけて行って」 じゃあね、と三木にも手を振り、だいぶ量の減ってしまったコーヒーを手に彼は休憩室を出て行った。願わくは、彼の行く手に突然暴走ストレッチャーだとか、いきなり蹴躓く入院患者だとか、ワックスの染みだとか、乱暴に開くドアなどが現れないことを。 |