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 ガラス張りのテラス越しに燦々照りの陽光が降り注ぐ昼下がり、売店に久々知平助の姿があった。
「あ、いらっしゃい」
可愛げのある八重歯を覗かせて営業スマイルを浮かべるのは、アルバイトのきり丸である。彼がここにいるということは、医療事務の方のパートは非番らしい。
「メントスある」
「えーと、最近配置換えしたんスよね…。ほらここ、レジの横になったんです」
 言われてみれば確かに、緑のキシリトールガムや何やらと一緒にあの筒状のパッケージがワイヤーラックの上に整然と並んでいる。レジにぴったりの小銭を置いて、グレープフルーツ味をひとつつまみあげた。
「はい105円。毎度ゥ」
 そうして出て行こうとした時。

「あー、久々知せんせー」

 クリーム色の院内いっぱいのお日様の光を束ねたような、なんとも脱力感あふれる明るい声が響いた。金色にブリーチしてセットした髪の毛を揺らしながら、相変わらず派手な服装の薬剤師見習いが飛び込んでくる。今日はきゅっと締まったスキニージーンズにラメの入った赤系のチェックのシャツを引っかけているのだが、その下は何故か蛍光緑のティーシャツで、ごついシルバーのアクセサリが首からぶら下がっており、足元は紫のハイカットだ。九々知は人の見た目に鈍いほうだが、どうもこの自称斎藤薬局の跡継ぎが同じ服を着ているのを見たことが無い気がする。
「聞いたよー。この前舞田けいこが来てたんだって?サインもらった?なんで教えてくれなかったのさぁ」
「いや、仕事中だったから。それに、タカ丸さんはその時間大学あるでしょ」
「代返効くから大丈夫。…あ、僕もメントス」
「どもっ、105円でーす」
 いや、そういうのを大丈夫とは言わないんじゃないか、と彼が二回目の留年中であるのを知っている久々知は心の中で突っ込む。
「あれ、なんかせんせー元気なくない?」
 片頬にメントス大のこぶを作ったタカ丸が、急に口調を変えて尋ねてきた。
「え、そんなことないけど」
「そう?なんか肌にツヤがないからさあ、あんまり寝てないのかと思って」
「たまたま忙しかっただけだよ」
「そう?たしか疲れ肌にはビタミンCが効くんだよ。今度処方してあげよかっか?」
「うん、別の人に頼む」
 ぎゃん、とタカ丸は大げさに吠えて、いつもお気楽にだらけてるような眉尻をさらに下げてみせた。
「信用されてないー?」
「いや、タカ丸さんまだ免許取ってないし」
 さらにタカ丸が何か言いだそうと口を開いたとき、何やら入り口付近が騒がしくなった。



「どけよコラ!」

 一分前まで平和そのものだった院内に怒号が響き渡る。

「だから!ご訪問の方は入館表にサインをいただくことになってるんですってば!」

 同じくらいの音量で響くのは、警備員である小松田秀作の一本調子だ。久々知とタカ丸は顔を見合わせ、どちらからともなく駈けだした。その先には明らかにそのスジの人と思われる服装をした十人ほどの集団がおり、気丈にもブルーの制服をきた小松田が両手を広げて通せんぼしている。その様子は確かに健気ではあるが、正直猪の前のイトトンボくらい無謀な挑戦に見えた。
「オイ兄ちゃんよォ、俺らがどういう人間か見えんのかなぁ。いいからさっさと通せ」
「無理ですよ、サインもらわなきゃ通せないんです!」
「テメェ、どけっつってんだろ、聞こえねぇのか!」
 と、ヤ印の男が一歩踏み出し、同時に走り寄っている二人の背筋が瞬時に凍った瞬間、

「まあいいじゃない。サインくらいしてあげれば」

 とのんびり集団をかき分けて登場したこれまた異様な風体の男が居る。その風貌に小松田さん、と呼びかけた二人の呼吸が止まった。
「はい、じゃあここにお名前とご連絡先を」
「雑渡昆奈門、連絡先はタソガレ組本部事務所。ねえ、昨夜ハラに包丁ブッ刺して運ばれてきた、大馬鹿野郎に会いたいんだけどね。救急はどっち」
「あ、だったらこの廊下を突き当たってエレベーターで一つ下ですよ。お見舞いですか」
「そう、お・見・舞・い」
 と、その男はにやりと笑う。
 ヤクザでもお見舞いしにくるんですかー、偉いんですねぇなどと頷く小松田には『お見舞い』の明らかに血なまぐさそうな含みは効かず、部下らしいヤクザ者達の物騒な視線も効かない。小松田のコメントを除けば水を打ったように静まり返った待ち合いを、顔前面に包帯を巻き付け、片目だけを覗かせた男は悠々と横断していくのであった。
「七松せんせーが、あんまり怒らないといいけど」
 タカ丸の呟きが、硬質の空気に落ちた。



 受付で騒ぎを巻き起こしたこの集団は、当然救急でも台風の目であった。

「なんてことさせるんですか!」

 先ほどの小松田よろしく、威圧的な男たちの前に立ちふさがるのは准看護師の皆本金吾だが、その語尾はわずかに震えていて顔面は蒼白だ。
 後ろには、同じく真っ青な顔をしている患者が、ベッドから半身を起している。頭に入ったそり込みとガタイの大きさからして、彼も同じくその筋の関係者だと知れた。異様なことに、その毛布の上には分厚い木のまな板と出刃包丁が載っている。
「ほら、早くやってしまえ。組の金を奪われておいて、まさか何の始末もつけずに済むと思ったわけじゃないんだろ?」
 と、看護師など目にも入らぬふうに雑渡が命ずる。口調はあくまで普通だが、たった一つ覗く眼光には有無を言わせぬ凄みがあった。患者の男はうなだれたままじっと包丁を見ていたが、終に震える右手を包丁にのばした。
「…! 駄目ですよ、止めてくださいッ!」
 止めようとした皆本の肩を一人がぐいっと掴む。 「組頭の邪魔をしないでもらおうか」
「…ッ」
「おいおい、私の救急で血を流そうっての?」
 後ろから声が上がった。ERドクターの七松小平太が、ドアに凭れて腕を組んで立っていた。医者ではあるが、いまここにいるヤクザ者たちの誰にも負けず劣らずの体格をしており、首の太さはプロレスラー並みにある。泥酔して暴れる患者も多いERを切り盛りする彼は、既に両目にらんらんと好戦的な光を宿していた。
 彼を連れ帰ってきた看護師の時友が、肩で息をしながら心配げな目を皆本に投げてくる。
「せっかく治した患者だからな、うちの病院に居るうちにやるってんなら、こっちにも心づもりがある」
 その不穏な調子に、侵入者たちが一斉に色めき立ち、一番健康なはずの時友の顔色が貧血より白くなる。だがそこにもう一度割って入った者があった。

「他の患者さんが怯えてるんで、帰ってください」
「善法寺先生!」

 救急の手伝いに来ていたこの内科医は、癖のある長めの黒髪にくりくりとした目もあって実年齢より若く見られることが多いが、その両目をきっと吊り上げて睨む様子はなかなか肝が据わっている。病室の壁ぞいに移動してくると、ベッドと男たちの間、皆本の横に並んだ。
「残念ながらそういうわけにはいかない。不始末は即償うのがウチの組の鉄則だからね」
「償うって、指を詰めさせるってことですか」
「そうだよ」
「だけど、この人は刺されたんでしょ?」
「刺されようが殴られようが、金を無くしたことには変わりないからね。責任はとってもらわないと」
「だけど、指を切るだなんて…」
「それが決まりなんでね」
 皆本を抑えていた若い男、いかにもな柄シャツから伸びる二の腕に登り竜の刺青をしているのが真ん丸な童顔と不釣り合いである、が焦れたのかさっさとやれ、と唸った。
 ひどく震えながらも、患者の指が包丁を掴む。
「待った!!…じゃ、じゃあお金が戻ってくればどうなんですか」
「うーん。まあ、金額も三百万だし、取り戻せたなら不問にしてやってもいいかな」
「組頭…」
 登り竜の男が何か言いかける。
「まあいいじゃないの、諸泉。戻ってくるなら」
「本当ですね」
「約束は守るよ。ただし逃走されちゃ困るから、期限はこいつが退院するまで。その間に先生が犯人を見つけられたら指は勘弁してあげよう」
「分かりました。何とかしてみせます」
 えええーーと、皆本の口からか細い悲鳴が上がった。
「無理だと思うから、諦めたらいつでも言ってきなさい。先生が他人のためにそこまですることないでしょ」
 と、置き台詞を残し、雑渡はくるりと背を向ける。すぐにほかの男たちが壁際に一歩下がり、いささか容量オーバーの病室で彼のために道を開ける。諸泉と呼ばれた男は、包丁とまな板を新聞紙でくるむと、これ見よがしにサイドテーブルへ置いた。
「お帰りは待ち合いじゃなく、非常口からお願いします」と、善法寺の声が追い被さるのに、雑渡の右手がわずかに上がった。



 さて、救急の非常口に繋がる普段使われない薄暗い廊下、そこに茶色の長イスがいくつか置いてある。そのうちの一つに、昨夜の次屋の言葉を借りればまるで「お祭り」のような搬入ラッシュ、そのまま朝イチのオペを乗り切った平滝夜叉丸外科助手が仮眠をとっていた。仮眠、というより精根尽き果てて崩れ落ちた、と言った方が正しいかもしれない。とにかく、身だしなみに気を使う普段の彼が見たら思わず胸を叩いて嘆き悲しむような、髪はボサボサ、服はしわくちゃのボロ雑巾のような態で彼は寝ていたのである。

 その値千金の貴重な彼の眠りは、何対もの足音によって破られた。薄眼を開けてみれば、まさかの強面の集団が歩いてくる。しかも、先頭を行くのはミイラの如く全身に包帯を巻いた男だ。あまりの光景に固まったままの平の脇を、その集団はぞろぞろと歩き過ぎて行く。寝たままの姿勢で固まっている平には目もくれない。もしかすると、本当にボロ雑巾が積んであると思ったのかもしれなかった。

「ねえ、善法寺先生だっけ、あの子気に入ったな」

 ミイラ男が漏らしたその言葉が、寝起きの平の耳にやけに大きく響いた。




「で、刺したのはどんな奴だった?」
 場面は戻って救急の病室。熱心に尋ねる善法寺だが、その声音には困惑がにじんでいた。先ほどから事件の状況を聞き出そうとしているのだが、一切答えが返ってこないのだ。患者はただ、ふてくされた表情をしたまま指を絡めたり離したりしている。被害者のはずなのに、これではまるで犯人に尋問しているようだ。真犯人が見つからなければ指を切らなければいけないのに、と善法寺は焦れながら一文字も書かれていない手元のメモを見つめる。

 そこへ、七松が大股で入ってきた。
「いさっくんは騙せても、傷を診た私はだませないよ。あんた、自分で刺しただろ」
 びくん、と患者が頭を跳ねあげる。その両目にはっきりと怯えの色が浮かんでいた。
「なんだって?」
「傷は深かったけど、無意識に急所を避けてる。他人にやられたにしては角度も変だ」
 善法寺の問いに、自分もかつてやんちゃをしていたと認めたことのある七松がすらすらと答えた。
「おおよそ、借金で首が回らなくなって、組の金に手を付けたってとこじゃない?襲われたなんてのは自作自演だ」
「…」
「な、あの場では私も医者だからああ言ったけど、指の一本や二本で済むなら御の字だ。とっとと退院して土下座して詰めてもらえ。それに多分、あんたのとこの組頭は気づいてるよ。気付いて指でいいって言ってるんだ」
 そんな、と患者の男は低く呟いて、ガタガタと震えだした。
「そうなの?えーと、どうせ…堂瀬さん?」
「す、すみませんッ、その通りです。先生を騙すつもりはなかったんです、ですけど、もし手をつけたのがバレたら指どころじゃ済まないから…。だけど、あっちの先生の言う通りです、潔く詰めてきますッ」
 サイドテーブルにある新聞紙の包みを堂瀬が今にもひったくりそうにするのを、慌てて善法寺は押し止めて、
「待って、待ってよ。狂言だったっていうなら、せめて理由を聞かせてくれないかな。もしかしたら力になれるかもしれないし」
「甘いなあ、いさっくんは!」
 と七松。
「だって、やっぱり指を落としてもいいだなんて、裏に相当の事情があるに違いないよ。ね?」
「そ、その…そうなんです。実は、おふくろが妙な宗教にハマってて…体調が最近すぐれないそうなんですが、その、なんつうか、『教祖様にお清めを受けないと死んでしまう』っていうもんですからどうしても…。おふくろが騙されてるのはわかってるんですが、俺は若い時から迷惑かけたっきり、何もしてやれなくて、それでおふくろの気が済むなら、と思ってしまって…」
「それで三百万円?」
「あの、どうも、教祖に直接会うにはそれくらいのお布施を出さなきゃいけない、とかで…」
 下を向いて、肩を落としたまま堂瀬はぼつぼつと話し始める。
「お母さんの体調が悪いって言ったよね?医者には見せた?」
「それが、根っからの医者嫌いで…おふくろが言うには胃の調子が…」
 ふんふん、と善法寺は頷きつつやっと面目躍如のメモをとる。その光景に七松は軽く肩をすくめ、勤務に戻ることにした。だいぶ顔色の回復した時友が顔を見せたからだ。
「七松先生、一件受け入れ願いです。恐らく脳梗塞発作、69歳、男性」
「よし、皆本、滝を呼んできてくれ!」





 その夜。病院からやや離れた繁華街の居酒屋で久々知は尾浜を待っていた。卓には半分ほどになったビールと冷ややっこがある。
「ごめん、ごめん、出がけになって後輩に呼ばれちゃってさ。待った?」
「いや、俺もさっき来たところだから…」
 尾浜はとりあえず同じビールと枝豆を注文し、お通しに箸をつける。
「どうしたの、急に相談したいことがある、なんて。病院の人には言えない話?」
「…勘ちゃん、俺、引き抜きの話が来た」

 きんぴらを運んでいた尾浜の、手が止まった。