<6> 改札口から、大量の人が吐き出されていく。 通勤時間帯の品川駅は、とにかく人、人、人であふれかえり、ありとあらゆるホームから発車ベルとアナウンスが鳴り響いている。駅を出て会社へ向かう人の群れがそれ一つで意思を持った巨体の生き物のように流れて行くなか、潮江は一人逆らって改札付近へ向かっていた。 足早に向かってくるスーツの男女の間をすりぬけながらも、目は絶え間なく山田利吉の長身に吊り目がちの顔を探している。 結局、なぜか妙にハイテンションな立花は羽田までつきあわせた揚句、しっかりチェックインまで見送りをさせて、新千歳へ旅立っていった。それから戻ってまたタクシーを拾わされたおかげで、十分な余裕を持って出発したにも関わらず利吉が乗っているはずののぞみはもう何分か前に品川へ到着してしまった。 利吉自身は何度も病院を訪ねているので、案内が居なくても何の支障は無いはずなのだが、招聘している身で迎えにも行かないような失礼は何としても避けたい潮江は、どうかすれ違いにならないよう目を皿のようにして群衆の中に利吉を見つけようとしていた。まだ駅の中を歩いているならよし、そうでなくもう改札を出てしまっているなら、この大量の人の中見つけるのは骨が折れることになりそうだ。 幸いなことに、ツキは潮江の側にあった。 向こうから、グレースーツを着こなした長身がさっそうと歩いてくる。 「利吉さん」 軽く手を挙げて呼びかければ、改札を通り抜けて山田利吉が近寄ってきた。 「あ、潮江君、来てくれたの」 「ご無理を言って来ていただく以上、お迎えに上がるのは当然ですから」 相変わらず堅苦しいね君は、と微苦笑して肩を並べる山田利吉は、これでも潮江や同輩の立花達より一回り上のはずなのだが、引き締まった細身の体つきに涼やかな目元のおかげでどう見ても30代にしか見えない。しかし、仕立ての良いグレーの背広にバーバリーのストライプシャツを着たこの伊達男こそ、普段アメリカはロサンゼルスの最先端医療の現場で執刀し、ひとたび帰国すれば日本中の病院から引く手あまたの天才心臓外科医なのであった。彼が執刀する時のギャラリーは、その手技を見ようとする医師で常に満員になる。 「それにしても、まだ父さんは出向中なんだって?すまないね、病院の方も人手不足だろうに」 「確かに山田教授がいてくだされば助かると思うこともあります。ですが、地域医療に貢献したいと言うのは、長年のご本人の希望ですから…」 などと病院の近況をぼつぼつ交わしつつ、タクシーのシートに並んだ彼らは一路、大学病院を目指した。 「今日はあと何件だ?」 内科助手の田村三木エ門は、横でカートを押す任暁左吉に尋ねた。彼はちらと目を落としてカートの上のバインダーをチェックすると、 「えーっと、あとは105号室の田中さんが胸のつかえを訴えているので、診察があるのと、それから108号室の上田さん、手術の余後の状態チェックを…」 と、答え始めたその時。 「うぎゃあああああ!!!!」 内科病棟に響き渡る、騒音禁止の病院にあるまじき絶叫。 2オクターブくらい裏返っていたが、それでもその声の主が内科担当の准看護師であることに気がついた田村は、即座に白衣をひるがえして駈けだした。 看護師の身を気遣うと言うより、病院全体の福利厚生と平和維持のためである。なにせ、『は組』が関わると小さな小さな事件が病棟丸ごとを揺るがす超重大事件になりかねない、それこそ静電気だけで爆発する危うい雷管のようなものなのだ。 「猪名寺!!!」 名を呼びながら駆け付ける、目指すは患者用のシャワールームである。入口の前に猪名寺乱太郎が腰を抜かしてひっくり返っているのが見える。その周りには補充用の石鹸やトイレットペーパーの類が、情けなく床に散らばっている。 「どうした?!」 「な、なかにひとがいるるるるるr…」 「え、誰がだ?」 呂律が回らないままに説明する猪名寺の上から覗き込むようにしてシャワールームを見る。 全裸の男が居た。 観音開きの曇りガラスのドアは全開になっており、シャンプーなのかボディーソープなのか全身泡だらけの男は、見晴らしの良すぎる眺めにも恥ずかしそうなそぶりは見せず、能面のような顔でこちらを見返している。生まれてこのかた日に当たったことなど在りませんと言うような真っ白い皮膚に、上半身を中心に綺麗に盛り上がった筋肉のついた体がじっと静止している様子は、どこか大理石でできたギリシャ時代の彫像を思わせる。 だが、ここは病院だ。 それも、患者が介助付きで使用できるように、ありとあらゆる方向に手すりを備えた最新式のシャワールームであって、断じて美術館ではない。 田村が思わず卒倒しそうになったのは、しかし全裸の男が病棟に居るということより、よりによってこの男と知り合いであると言う事実であった。 「あーやーべー?」 地獄の底を這うような、喉以外のどこかから出てくる声で名前を呼ぶ。 男はじろりと田村の方を見て、床にひっくり返ったままの猪名寺を見下ろし、さらにその後ろ、顎ががっくんと重力に負けている任暁を見てから、もう一回田村に視線を戻し、青筋を浮かせ始めているこめかみのあたりをやや時間をかけて眺めた。そして、 「呼ばれて飛び出てじゃじゃじゃじゃーん」 とこれっぽっちも面白くもなさそうな声で抑揚無く呟いた、この男こそ脳神経外科研究室所属のポスドク、綾部喜八郎なのであった。 運悪く背後を通り掛かった母子連れが、あっち向いてなさい、と子どもに声をかけるなりそそくさと過ぎ去って行った。 こめかみが凝っている。 田村はぐりぐりと頭のツボをもみほぐしつつ、おそらくコリの三割くらいの原因を作っているであろう目の前の綾部を恨めしげな目で眺めた。 あの後、彼は悠々と泡を洗い流し、腰を抜かした猪名寺の代わりに任暁が慌てて取りに行った備品のバスタオルで体を拭いて、可及的速やかに内科スタッフルームまで連行された。田村が予定されていた診察を一通り済ませて戻ってみれば、ちっとも悪びれない顔の綾部はソファーにだらしなく座り、田村の私物のマグカップからコーヒーをすすったりしていた。 コーヒーテーブルの上には、どう見ても4本以上のスティックシュガーのごみが散らばっている。 「…で、なんでシャワールームになんて居たんだ?」 「シャワーを浴びるため」 「いや、そうじゃなくて!シャワーならお前の部屋にあるだろ」 だからなんでそこで首をかしげる。 もみほぐしたはずのこめかみが一層重くなるのを感じて、田村は叫び出したい衝動に駆られた。 「ないよ」 「は」 「だからシャワーが無い。ていうかお湯が出ない。今日寒いし」 「なんでお湯が出ないんだ?工事でもしてるのか」 「わかんない。そもそも滅多に帰らないし。一週間ぶりに帰ってみたら、お湯が出なかった。あと、コンロも使えなかった」 しゃあしゃあと言ってから、なんでだろうね、とコーヒーを味わう綾部の後ろで、たまたま会話が聞こえたらしい任暁が、それってもしかして…と恐る恐る言いかける。手で制した田村も、思うことは同じだった。 「喜八郎、もしかしてそれ、ガス止められたんじゃないか」 「ガス…あー、そういえば最近払ってなかったかも。口座を変えてからどうもお金が減らないと思ったけど」 「お前なあ…」 がっくりと脱力した田村は、無言で綾部の手からマグカップを奪い取ると一口啜った。カフェインでも大量に摂取しないことには、残りのシフトを乗り切れそうにない。 とはいえ、余りの甘さに思わず顔をしかめ、押しつけるようにして綾部に返した。綾部は大学の研究室に寝袋を持ちこんで、ほぼ自分の居住スペースにしている。彼が借りている安アパートは、ほとんど着替え置き場でしかない。 「で、ガスが止まってシャワーが使えないからって、なんでうちの患者用のシャワールームを使うんだ。銭湯か、大学のトイレにシャワーがあるだろう」 「だって、病院の方がうちから近いし」 「せめて宿直室のを…」 「だってあそこ暗いし、幽霊が出そうで」 いや、出ないからと突っ込みをいれた瞬間だった。控室のドアがばーんと開き、平外科助手が飛び込んでくる。 「三木!大変だ」 勢い余ってよろめいた平の顔色は真っ青である。思わず田村も腰を浮かした。 「…え、喜八郎?なんでお前がここにいるんだ」 「シャワールームで素っ裸で発見されたのを、保護したんだ」 と、田村が説明した。言外に、もうこいつの問題で手いっぱいなのだから、これ以上何か持ち込んでくれるなと匂わせてみる。 「はあ?」 「アパートのシャワーが止まっててさ、嫌になるよね」 「それはお前が支払い忘れたのがいけないんだろうが!」 「喜八郎…だからあれほど、郵便物は中身を見てから捨てろと言っているのに」 深く、深く溜息をついた平をしり目に、綾部は飄々としたものである。コーヒーを飲みほして、ぽんと両手を叩いた。 「あ、そういえばそもそもシャワーが使えないから病院に来たんじゃなくて、立花先輩に会いに来たんだった」 「立花助教授なら、今朝から学会出張で居ないぞ」 「なんだそうなの。じゃ帰る」 さっさと立ちあがりかけたところを平が制して、 「まあ待て、またお前のことだから研究室にこもったら一週間は出てこないんだろう。伝言くらい聞くぞ?」 「いい、秘密の話だし」 「秘密?なんだ、私たちには言えないようなことか」 「特に三木にはね。だって、三木に言ったら全部潮江助教授に筒抜けになるでしょ」 「な、僕が伝えるのは、そうした方が病院全体の利益になると思うからだ。潮江先輩はあれで病院の若手医師のまとめ役でもおられるし」 「でも、私が用があるのは立花先輩だから。滝こそどうしたの、前髪乱れてるよ」 その言葉に本来の目的を思い出したか、血色の戻りかけていた平の顔がさあっと血の気が引いた。 「そうだ、大変なことが起こったのだった。さっき浦風師長が知らせに来たんだが、この前救急に運ばれてきたバチスタの患者、利吉さんが執刀する予定になっているだろう、あの患者が、行方不明なんだ!」 「なんだって?!」 その言葉を聞いた瞬間、田村の顔色も平と同じくらいに色を失った。 「脱走したのか」 「恐らく。病室から荷物一切と一緒に消えていた」 「まずい、まずいぞ。あの人、大きな発作からやっと回復したばかりだ。本当は立ちあがって歩くのだって禁止したいくらいなのに、外に出たりしてまた発作を起こされたら…」 「死んじゃうね」 と綾部。ばちんとその頭をはたいてから、田村はおろおろと立ち上がる。 「なんてこった…。それに、このバチスタには病院の命運がかかってるんだ、そのために利吉さんにもお越しいただくのに…執刀前に患者に何かあったらすべてぶち壊しだぞ」 ちら、と時計を見る。今の時刻、10時半。利吉が病院に到着するのが12時、術前カンファレンスが開かれる予定になっているのが2時半。最悪でも2時半までには連れ戻さなければならない。そうでないと、海外から執刀医を招聘しておいて、肝心の患者が行方不明などという失態を病院中にさらすことになる。それこそ、あえて助手に甘んじてでも山田利吉に執刀を頼んだ潮江の面目が立たないではないか。 そして何より、無理をすれば患者の命が危険だ。 頭の中で最悪のシナリオが駆け巡る。 「三木、どうする」 滅多に人に物を聞いたりしない平までがそんな台詞を思わず口走った所を見れば、相当に動揺しているのだろう。ああ、こんな時に潮江先輩が居れば。あの人は普段は面倒くさいけれど、こういうときは肝が据わっていて頼りになるのに。いっそ立花先生でも良い。この不手際に冷めた目でキツイ一言が降ってくるのは目に見えているが、それでもあの人が一声かければ病院が動く。 「…すぐに探しに、ってこの後術前の面会予定が…。とりあえず、浦風師長に話を。あと担当の看護師誰だァ!」 なんでこんな時に教授も助教授も揃っていないのか、とうっかり最高責任者になってしまったわが身を呪いつつ、三木は平と共に浦風を捕まえるべく廊下を駈け出したのだった。 |