<7>


 浦風はあっさり見つかった。というより、あちらも田村たちを探していたのだ。彼は同じ師長の制服を着た同僚を、なかば引き摺るように伴っていた。平がぽかんとした顔を二人に向ける。
「浦風…、最終兵器、ってそれ?」
「富松です!」
 指でさされた上にそれ呼ばわりされた小児科師長・富松作兵衛はふくれっつらの頬をさらに膨らませ、その横で浦風は誇らしげに胸を張る。
「平先生、田村先生、作は迷子の捜索にかけちゃプロなんです」
「それはあの方向音痴二人に関してだけだろうが! 俺は俺の仕事があるんだっ」
「いやだからね、作はあの二人を探せばいいんだよ」
「は?」
 喧嘩腰の富松を見やりながら、話の流れがつかめない平と田村もそっと顔を見合わせる。
「あの二人は動物的勘っていうか、そういうのがあると思わないか? さっき電話したら二人とも非番だったんで、例の患者を探してくれって頼んだんだ」
「おい藤内、てめェまさか…」
「あの患者を見つけた二人を今度は作が探せば、万事解決」
 一瞬口をぱくぱくさせた富松は、次の瞬間風のように走り出す。騒々しい足音はすぐ階下に消え、

「方向音痴を野に放つなあぁぁぁぁ! 馬鹿藤内ーーーーーーー!!!」

 という叫びだけが長い廊下にこだまする。
 明らかにその残響のせいだけではなく、田村はこめかみが痛くなった。浦風は田村が知る限り真面目で常識人のはずだったのだが、やはりどこかずれている。というより、この病院に真の常識人など望むべくもないのかもしれない。
 自分を棚に上げて呻きつつ、浦風に向き直れば彼はきりりと涼しい顔をして報告するのを待っていた。

「それで…、浦風、何があった」
「はい。担当の看護師がカーテンを開けようと個室に入ったら、南野園さんの姿が消えていたそうです。荷物は無く、点滴は抜かれ、シーツと貸出の院内着が綺麗に畳まれて置いてありました。最後に南野園さんの在室が確認されたのは10時の定時検診です」
「担当の看護師は?」
 淀みなく答えていた浦風が、ちらり、と気まずそうな視線を田村に向ける。嫌な予感を感じた。
「患者はすでに循環器科の部屋に移っていたので、担当は加藤です」
 嫌な予感ほど当たるのはなぜなのだろう。これで潮江に申し開きはできなくなった。横でこっちをじとっと見ているであろう平のほうなど、見たくもない。
 循環器科は専門の病棟を持たない。一般外科の病棟の一角に、主に手術前の、体調管理が必要な患者を容れる病室をいくつか持っていた。加藤団蔵や任暁佐吉ら循環器科の看護師は、手術の器械出しの他それら病室に入った患者たちの世話が主な仕事なのだが、発見した加藤はとりあえず手近にいた外科師長の浦風に報告したらしい。そして浦風は田村を探すうちに平と行き合ったということか。
「それで、団蔵は今どこに?」
「院内を探しに行くと言って・・」
「分かった。全く、まずは自分で報告しに来るべきものを…。浦風師長、手数をかけてすまなかった」
「いえ」
 横から平が口を出す。
「失踪時の患者の服装は?」
「見舞いに来られた方はいないので、搬送時と同じだと思われます。」
「そうか…、じゃあえんじ色のジャケットにベージュのズボン、黒のタートルというところか」
 覚えているのか、と田村が眉をひそめたとき、ばたばたと慌てた足音がして、先程の話題の主がやってきた。振りかえった田村と目があって、図体がしっかりしているくせに子供っぽいところのある若い准看護師は、ひっと喉を鳴らして立ち止まった。
「団蔵!」
 呼べば、くしゃりと顔をゆがませ、肩を落として近づいてくる。
「田村先生、その…、ご報告遅くなって申し訳ありません。院内を隈なく探したんですが…」
 行き場のない憤りや焦りや不安を加藤にぶつけるのはた易い。しかし半狂乱で院内を駆けずり回ったのであろう、息を切らせ、汗をかいて茹でたほうれん草の如くしおれた本人を目の前にすると、怒る気持ちも失せて行った。滑稽なほど丸められた肩をぽんぽんと叩き、ため息をつくしかない。
「そういう話は後だ。きっともう外に出たんだろう。団蔵、手のあいた職員を正門前にかき集めておいてくれ」
 わかりました、と一礼して、彼はしおしおと出ていった。
 しかし比較的落ち着いている午前中とはいえ、人手不足のこの病院では常にぎりぎりの勤務体制である。団蔵に頼んだところで、そうそう手伝ってくれる職員がいるとも思えない。
 病院の状況に関わらず手伝わせられる人間といえば…・

「喜八郎」 「タカ丸さん」
 平と田村は顔を見合わせ、同時に違う名を口にした。




 綾部はすでにスタッフルームから消えていた。任暁もすでに捜索に加わったらしく、あとにはすっかり飲み干されたコーヒーのマグと、なぜか可愛らしく結ばれた五つの砂糖の袋、山と集められたクッションが残るのみだ。
 綾部の面倒を察知してからの素早さときたら、普段の気怠さを知る平からすれば信じがたいほどである。とはいえなかば予想していたことであるので、平は無人のスタッフルームに施錠し、正門へと向かう。
 どうせ携帯にも出ないだろうから、直接捕まえる他ない。同じ敷地内なのだし、あとで研究室に押し掛ければいいだろう。大学病院というのはそれが便利だ。




 こちらも田村の予想通り、薬局にタカ丸の姿はなかった。おとなしく講義を受けているとも思えないので、携帯の使える受付外のスペースで遠慮なく彼の携帯にかけてみる。相変わらず、三コールであの間延びした声が出た。
「三木くんー?」
「タカ丸さん、今どこにいるんですか?」
「んーちょっと駅前をね、ぶらぶらしているとこ」
「よかった、申し訳無いんですが緊急なんです。患者がいなくなって…」
「あ、ちょっと待ってね」
 電話の向こうで、病院から緊急だってーごめんねーというまったく緊急性を感じさせない声と、何やら甘ったるい返答が聞こえてくる。どうやらデートを邪魔してしまったらしいが、タカ丸の相手などそれこそ掃いて捨てるほどいるので、ひと一人の命がかかっている田村としては罪悪感を感じる必要はないはずだ。しかし一応謝罪と気遣いはしておかねばなるまい。
「もしもしー?」
「お邪魔してしまったようですみません。大丈夫でした?」
「いいよいいよー 次埋め合わせするから、って言っといたから」
「じゃあ…」
 簡単に経緯と患者の外見を伝え、電話を切る。さっきから看護師たちが何度も横を通ったから、そろそろ団蔵の呼びかけが効いてきた頃だろう。
 正門を抜けると、予想に反して小さな人だかりが田村を待っていた。さすがは組、こういう時の団結力は頼りになる。
 先程タカ丸にした説明を、10人ほどの看護師や事務員たちに繰り返す。驚くべきはその中に、心療内科の医師、不破が混ざっていたことだ。目で確認すると、大丈夫とでも言うかのようにふうわりと笑って頷いてくれた。
 よろしくお願いします、と頭を下げ、散り散りに出て行く捜索隊を追って自らも出発しようとしたとき、平の声に呼び止められた。
「三木エ門、タカ丸さんは?」
「今駅にいるそうだ。改札を見張ってくれるよう頼んでおいた」
「そうか…綾部はもういなかったよ。それでさっき小松田さんに南野園氏を見かけなかったか聞いたんだが、」
「言わなくても予想がつくけどな」
「…小松田さんは南野園氏と同じ服装の男性が正門前から出て行くのを見たそうだ。入出館届が必要な時間帯でもなかったけど、ちょうどドアのところで胸を抑えて苦しそうにしていたんで、大丈夫ですかと聞いたらしい。そうしたら外出許可をもらっているからと言われ、少し落ち着くのを一緒に待って、見送ったのが10時15分…」
「見送った!? 明らかに入院患者が具合悪そうにしているのに、どうして止めないんだよ!?
 っていうか医者に連絡しろよあのマニュアル小僧!!!」
「まったく同感だ…」
 二人してため息をつく。明るい日差しにも関わらず、ふたりのまわりにだけ落胆という暗雲がかかっているようだった。こうしてお互いの状況を確認し合ったところで、改めて捜索に加わるべく足を踏み出した田村を平が押しとどめた。
「待てよ、三木エ門。お前は残れ」
「そういうわけにはいかない。失踪したのはうちの患者だ。うちの責任でもある」
「だからこそだ! 状況がわかる者がみんな出払ったら誰が指揮するんだ。大体他の患者もいるだろうに、助教授も助手も揃って留守にするわけにはいかないだろう」
「……。」
「状況は逐一報告する。それより、」
 と、平が声を低める。
「手術が近くなったらマスコミが入るぞ。うまくやれよ」
「あ、ああ。ところでお前は七松先生の許可をとったのか?」
「午前中は搬送が少ないし、先生は先生でやりたい放題だからな。たまには私だって好きに行動したっていいだろう」
 にやり、と笑って平は溶けそうなアスファルトの地面に飛び出して行った。

 



   アスファルトに反射した熱は陽炎を作り、ぴくりとも動かない空気は熱波となって全身を包む。タクシーを止めたせっかくの木陰でさえ、頭上から降り注ぐ蝉の合唱のおかげで暑苦しいことこの上ない。もっとも、同僚に言わせれば暑苦しいのは潮江本人だということになりそうだが。
 煙草を買うと行って途中コンビニに寄らせた利吉を、潮江はタクシーに寄りかかって待っていた。煙草くらいこちらで買うと申し出たのだが、自分で買わないと禁煙の動機にならないからなどと言って、ひとりで買いに行ってしまったのだ。
 そのとき、胸ポケットの携帯が震えた。着信は田村三木エ門。

「どうした」
「あ、潮江先生。ご報告しなければならないことが…。今利吉先生はご一緒ですか」
「いや?」
 むこうでほっとため息をつく気配がする。この助手には珍しく歯切れの悪い様子に、潮江は直感した。
「バチスタの患者に何かあったか」
 あからさまに息をのみ、うろたえる田村。ややあって、震える声が流れてきた。
「はい…、その、南野園さんが、行方不明なんです」
「なに!?」
 気をつけたつもりなのだが、やはり携帯を通して聞いた己の声は怒声に近い。こういう時こそ冷静であらねばならないのに、と潮江は額に手をやった。
「わ、私の監督不行き届きです。申し訳ありませんっ」
「いや…。それで、心当たりはあるのか」
「いいえ…。っ、ですが、今、動ける職員総出で探してます。失踪からそれほど時間はたっていませんからおそらく」
「警察には連絡したか」
「は…いえ」
「バカタレ、なにやってるんだ」
「で、でも大がかりな捜索となれば表沙汰になります…っ。病院の信頼も、潮江先生のお立場だって、」
 聞こえてくる声にはすでに涙が混じっていた。病院で独り、プレッシャーと焦りに押し潰されそうになっているであろう彼の心情を思えば無理からぬことなのだが、部下の心の傷はあとで癒すことができる。事態は急を要するのだ。ついつい声が大きくなった。
「バカタレィ、今そんなことに拘わっている場合か! 患者の容態は分かっているだろう。あらゆる手を尽くせ。責任は俺が取る」
「は、はいっ」
 声が遠くなったところをみると、聞こえる音量に慄いて耳から携帯を離したのかもしれない。田村は有能だが、こういうところが軟弱である。とにかく早くしろとだけ言って、潮江は電話を切った。振り返れば、袋はもらわない主義の利吉が煙草とペットボトルのお茶二本を持ってコンビニを出てくるところで、気を遣わせてしまったという後悔と利吉にどう説明しようかという思案で、暑さの中気が遠くなりそうだった。




 さて、病院の職員たちが額に汗して街を探しまわっている頃。冷房のおかげというよりは、年季の入った石造りの建物特有のひんやりとした空気の中、綾部喜八郎が薄暗い廊下を歩いていた。ここは彼が院生として所属する大学の、生命倫理学研究第一棟の二階である。
 この建物はかつては教授たちの研究室や院生の控室が並んでいたものだが、すぐ隣に新しい8階建ての建物が出来てから、生命倫理学研究科の主な機能はそちらへ移り、今は専ら資料庫及び学生たちのさぼりの場として使われていた。しかし平日の午前中とあって、学部生や修士課程の学生たちは講義に出席しているか、家で寝ているかしているのだろう、綾部がこの建物に入ってから、まだ誰とも行き合わない。
 その静寂に遠慮するわけでもないが、綾部は足音をほとんど立てなかった。これは彼の癖である。すり足で歩く上に、このごろ足元は常にくたびれたゴム底のグラディエーターなのもその理由であった。そうして綾部は、ホルマリン漬けの豚の胎児やら埃をかぶった人体標本やら何語ともしれぬ題字の書物のならぶ廊下を、小声で一昔前の流行歌を歌いながら歩いている。
 「も、もいろーのかたおもーい あーいしてーる」
 どこで習い覚えたものか、歌詞にそぐわぬ無表情。ともかくどうして彼が畑違いの生命倫理学研究科にいるかといえば、彼が心酔する先輩に頼まれた任務を果たすべく、生命倫理学部学長・稗田八宝斉の身辺を探るつもりだったのだ。この棟に行けば自主休講中のゼミ生にでも会えるかと思ったが、研究室から一日中一歩も出ないような生活を送っていたせいで、一般学生の生活時間の感覚を失っていたようだ。だが涼しいし、研究室へ戻れば滝夜叉丸が追いかけてくるかもしれないし、などと考えながら散歩気分であった。
 その時ふとした空気の流れに乗って、低い声が耳に入った。確信があったわけではないが、綾部の歌はすぅ、と尻が消えて横のチンパンジーの口の中へ吸い込まれる。相変わらず足音を消したまま、声の聞こえたほうへ寄っていくと、そこは普段は鍵がおりている生命倫理学資料編纂室であった。中の電気がつき、人影が動くのを見て、われ知らず扉の横に身をひそめた。

「それで、例の件はどうなりました」
 先程の声に続いて、扉の向こうから聞こえてきたのは稗田八宝斉そのひとの声であった。おやまあ、と息だけで呟く。
「まあなんとも…。しかしですな、学内で支持固めの目処はつきましたわ。大川はお気楽に外遊中であるし、抵抗勢力といったって若造の助教授どもですからな」
「そうですか」
「それより、厚労省のほうの根回しはそちらにお任せしてよろしいんでしょうな」
「ええ。古狸の部長連中は、自分に不利が無いとわかれば何も口出ししませんよ」
「それは安心ですな。あとはあの薬の完成を待つだけだ」
「完成すれば歴史が動きます。画期的なことですよ」
「その栄誉に連なることができるとはまったく光栄の極み。ちゃんとお膳立ては整えてお待ちしますからな」
「よろしくお願いします」

 小さな窓に映る人影が大きくなったのを見て、綾部は咄嗟に周りを見渡した。室内から溢れ出たと思しき書物が積まれていたが、どの山も綾部の膝上くらいまでしかない。隠れるのを諦め、腹をくくった。
 ドアを開けて出てきたのは、スーツをきっちり着こなした、白眼の目立つ30代半ばの男であった。じろり、と綾部を横眼で見て足早に去っていく。続いて部屋を出てきた稗田は、綾部よりも頭一つ分低い体格ながら、異様に大きな頭と鋭い眼光、天をさすように上向いた顎が威圧感を与える初老の男である。年齢の割に黒々とした頭髪を丁寧に後ろへ撫でつけている。稗田は綾部の姿に少なからず驚いたようで、ぎょろりとした目をむいた。